200回 書くということ


毎週欠かさず更新してきたこの連載も、今回で200回目になる。
「少女」をテーマに掲げてきたため、当初は一般的に少女性を感じやすいモチーフを選んだり、かなり無理やり少女にこじつけたりといったこともあったが、最近はあまりこだわらず好きに書くことにしている。
なぜか。それは何を書いても自分の中の少女性というものは、自ずから滲み出るものであり、それに共感してくれる人もきっとどこかにいるだろうという自信がついたからに他ならない。

それにしてもよくもまあ書いてきたものだ。1回の分量は原稿用紙5枚前後とはいえ、それが200回ともなると1000枚になる。1000枚と言えば立派に長編小説の長さである。
書くという行為は、自分が何を考え何を感じているかを、あらためて自分に問い直すことだ。その過程で今度は、自分が何を知らないかということに気付く。
いまはなんでもネットで簡単に調べることができるが、それが正確な情報であるのかという担保を得ることはなかなか難しい。情報を鵜呑みにせず、幅広い視野を持って多方面から調べる。そうすると一般に流布されている情報が意外に間違っていたり、それがあるひとつの間違った記事から伝言ゲームのように広がったものであったりといったことが、見えてくることもある。
昔は辞書や百科事典といったある程度信頼性を担保された情報しかなかったので、それを信用すればよかったのだが、今はこれだけ玉石混交の情報があふれているので、どれを正しいと判断するかは個人に委ねられていると言ってもいいだろう。情報の重さ正確さの色付けがなされず、全てがフラットに並べられている中でどれを選ぶか、個人の価値観が問われる。
そのため反語的に、書くという行為はよりその言葉に責任が伴うようになっているのだ。

自己表現には、絵画や音楽やダンスなど様々な方法がある。その中でも言語化、つまり言葉にすることは、一番端的に他者に自分を伝えられる便利なコミュニケーション手段である。
いや、他者だけではない、自分で自身を理解するための大事な手法が言語化なのだ。自分の状態を上手く言語化できないと、自分が何が嫌なのか何が好きなのかわからず、やみくもに感情をぶつけることになりかねない。
我々の感情は最初から言葉の形をとって沸き起こるわけではない。「私はいま怒っている」と言葉で自覚する前に、怒りの感情は噴出する。誰もがその感情のままに行動してトラブルになった経験をもっているだろう。アンガーマネージメントというのは、怒りを怒りとして即座にそのまま表出するのではなく、言語化するまでの「ため」を持つ技術と言ってもいいかもしれない。
もちろんときには怒りたい時に怒ることも必要だ。でもそのあとちょっと頭を冷やして、なぜ自分が怒っているのか言語化し、相手がいるならその人にそれを伝えることで、自分に対しても相手に対しても理解が深まれば尚良いのではないかと思う。

言語化というと難しそうに聞こえるが、声に出さなくても実際に書き連ねなくても、頭の中で言葉を組み立ててみるだけで、かなりいろんなことがクリアになる。
なんとなく気持ちがモヤモヤしたり、どことなく気に障ってイライラするとき、その気分をそのまま抱え込む、あるいは誰かにぶつけることでは、決して根本的な解決にはならない。いつまでも嫌な気分を引きずることは精神衛生上よろしくないし、他人にあたっては人間関係を悪化させるだけだ。
そんなとき「私はこれが嫌いだ」「私はいま怒っている」と頭の中ではっきりと言葉にするだけで、ああ自分は今そうなんだなと納得する。「ちょっと嫌だった」から「ものすごく怒っている」まで、その時の感情の程度を言葉で表現してみるだけでもかなり違うので、お勧めだ。
言語化というのはつまり、自分を客観的俯瞰的に見てみるということなのだろう。

言葉には自走性というものがある。
この言葉の次にくるのはこれというものがある程度決まっているので、それに従ってあまり深く考えずに書くこともできる。でもそうするといつのまにか、当初自分が書きたいと思ったこととは異なる方向へ、文章が流れていってしまうことがままある。
これは話をする時も同様で、ただ言葉の自走性に任せて表面的にありきたりのことをなぞるだけで、おざなりのスピーチというものができてしまうのだ。そういった中身のない話は、世の中にうんざりするほどあふれているだろう。
言語化する際には、言葉に舵を奪われないように慎重に自問することが大事だ。それは本当に言いたいことなのか、確かにそう感じたのだろうか。言葉はいつでも慎重に自分自身で選ばなければならない。

200回書き続けることで、ことさらに少女性を強調しなくても私が私であるように書けば、それが私の「少女」であると思えるようになった。
「少女」が定義から逃れ続ける存在である限り、これが少女だと言えるような言葉はないのだ。言語化できない「少女」を言語化する試み、それこそこの一連の論考の目的なのだと思う。
不在の少女を追い続ける限り、私は「少女」で在ると信じている。


登場した言葉:アンガーマネージメント
→怒りという感情自体は健全な精神のバロメーターだ。それをコントロールできるかどうかが問題。
今回のBGM:「CASTLE」by Dios
→新しい創作物を享受できる柔軟さを常に保っていたい。才能あふれる3人の若者が創り出す音楽は、驚くほど知的で洗練されている。


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