192回 醸して候



「くず餅」をご存知だろうか。
葛餅、ではない。関西地方でよく食べられている葛餅は、その字の通り植物の葛の根から取ったでんぷんを精製した葛粉から作られる。葛粉に砂糖と水を加えて加熱してできた、ぷるぷるの透明な餅状のものが葛餅だ。
関東地方という大きな括りというより、東京下町というごく限られた地域で馴染みのあるくず餅は、小麦粉のでんぷんを発酵させてできた、わずかにくすんだ白色の弾力性のある餅である。江東区亀戸天神前に本店がある船橋屋が代表的な店だろう。江戸時代に小麦の生産が盛んだった千葉、当時の下総国葛飾郡の漢字に因んで「葛餅」と称されたものが、関西の葛餅と区別するために「くず餅」と表記されるようになったそうだ。
江戸時代から庶民の味として親しまれたくず餅は、数ある和菓子の中でも発酵食品という特異な立ち位置にある。

東京の上野出身なので、幼少期には親がお土産に買ってきたくず餅を食べる機会が多かった。ぐにぐにした特有の食感と、微かに酸味を感じさせる味が好きだったが、その頃は特に特別なものだという認識はなく口にしていた。
最近このくず餅を通販で購入できることを知り、何十年ぶりかで食べてみたところ、記憶にあるのと寸分違わぬ味と食感にまず驚いた。
そしてこのくず餅が、和菓子の中で唯一の発酵食品だということもその時初めて知った。小麦粉を水で練ってでんぷんを沈殿させるのだが、その時グルテンは殆ど取り除かれる。でんぷんは仕込み水と共に450日間乳酸発酵させ、発酵完了後水を切った原料をいくつかの工程を経て、最後に一気に蒸し上げたあと冷ましてカットする。こうしてできたくず餅の賞味期限は、保存料などが一切入っていないため、わずか2日間である。

古今東西世界中で、人類は発酵食品を作って愛してきた。
言うまでもなく酒の類も発酵食品である。スウェーデンのシュールストレミングや韓国のホンオ・フェ、日本のくさやといった名だたる臭い食べ物はみな発酵の力を借りている。基本的に発酵食品は保存食として作られるものが多い。
納豆にしろ糠漬けや沢庵にしろ、発酵食品は独特の臭いと切り離せない。そのため近年は、その臭いを疎まれてあまり食卓に上がらない傾向にある。和食離れもその一環かもしれない。その反面、これも発酵食品の代表的なものであるチーズは、随分と一般的となった。もちろんアクの強いブルーチーズを好む人は、日本ではまだ少数派かもしれないが。
発酵は、原材料の栄養価を向上させ、旨味を引き出し、長期保存を可能にする。味噌や醤油といった身近な存在も、発酵の力なしでは作れないのだ。

そしてその発酵を担っているのが、乳酸菌や酢酸菌といった微生物なのである。
最近の研究で、腸内細菌叢(フローラ)が健康を保つ上で重要な役目を果たしていることが判明してきた。
腸内細菌叢の乱れが、数々の病気を引き起こす。アルツハイマー病も、この腸内細菌叢と関係があると言われているくらいなのだから、いかに我々の身体が細菌との微妙なバランスの上で共存しているかがわかる。もはや食事とは腸内細菌に餌をやることだと考えても良いくらいだ。

腸内だけではない、皮膚に存在する常在菌も重要な役割を持っている。常在菌の主役は表皮ブドウ球菌だが、病原性の強い細菌の増殖を抑制したり、皮膚の表面を弱酸性に保ったり、皮膚のバリア機能を維持したりと、大活躍だ。清潔を保とうとするばかりに、過度の洗浄をし過ぎると、せっかくの常在菌を根こそぎこそげ取ってしまうことになる。なにごとにも程々は大事である。
この頃は化粧品でも、乳酸菌を用いたものがいろいろ発売されている。有名どころでは、乳酸菌飲料の代表格であるヤクルトが、1954年から化粧品の開発・製造をおこなっている。ヤクルトに配合されている乳酸菌のシロタ株から保湿成分を研究して作られた化粧品だ。そしてくず餅も、くず餅乳酸菌という独自の乳酸菌を用いた化粧品を発売している。
その他、常在菌の餌(やはり餌をやるのは大事!)になるオリゴ糖などを配合した美容液といった、皮膚自体が本来あるべき姿を保てるようにサポートするという発想のものは、微生物との共存で身体が成り立っているとの認識にほかならない。

最初に入学した東京理科大学理工学部応用生物科学科というところは、メインの科目が微生物学であった。当時最先端の分子生物学に辿り着くためには、まず大腸菌などの細菌と馴染みにならなければならない。
具体的には細菌の培養を学ぶところから始まる。培地を作り菌を植え培養器で培養するのだが、なかなか思うように菌が増えなかったり、増えなくても良い他の菌が増えていたり(これをコンタミネーションという)して、四苦八苦した。
発酵学の講義もあり、実際にアルコール発酵を行なって酒を作ってみるという実験もやった。これがまた上手くいかず苦労する。杜氏の技術とノウハウの凄さを思い知らされる体験だった。

酒だけでなく全ての発酵食品は、長い間積み重ねられた知識と経験によって作られている。発酵に使われる菌もまた、人類と長い間共存してきたそれぞれが貴重な財産なのだ。
その土地の食べ物に最適化しているであろう腸内細菌たちは、このところの食文化の多様化に目を回しているかもしれない。海外に行ったときは、着いた空港でその土地に合った腸内細菌パックを配ると、お腹を壊さずに済むのではないかと思ったことだ。

今日もまた腸内細菌を肥やすために、発酵食品を積極的に摂ることにしよう。


登場した言葉:腸内細菌パック
→インドに行ってお腹を壊した時にこれを思ったが、よく考えると原因はインドの料理に含まれる多量の油脂のせいだったような気もする。
今回のBGM:「Sounds of India」by Ravi Shankar
→言わずと知れたシタール奏者。米国に住んでいた彼が丁度インドに里帰りした際に、ニューデリーのホテルで行われたライヴを聴く機会があった。演奏の途中で結構な時間舞台から中座したのでどうしたのかと思ったが、きっとあれは久しぶりのインドの水が合わず腹を壊したのだと睨んだ。腸内細菌パックもらっておけばよかったのにね。


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