第144回 跳躍と疾走


体育が苦手だった。
正確に書くと、おそらく苦手だったのは球技系であり、陸上系は結構得意だったように思う。小学生の頃、足だけは早かった。ただし持久力はまるでなかったので、短距離走限定である。徒競走、いわゆる駆けっこは結構好きだった覚えがある。
一時期走ることを競わせて順位をつけるのはやめよう、みんなで手を繋いで一緒にゴールをしようなどという欺瞞に満ちた馬鹿げた風潮があったが、いまはどうなのだろう。だいいち運動競技というものが1番を競うものである限り、順位を付けないということ自体が矛盾している。
誰だって得意不得意はあるのだし、だからといってそれは優劣とは関係ない。いろんな項目があればあるほど、その中のどれかが自分に合うかもしれない可能性が高くなるのだ。選択肢は多いほど良い。運動が不得意でも他に好きなものがあれば十分だ。

小学校では、走ることと跳ぶことが合わさった跳び箱というアイテムがあって、こちらもなぜか得意だった。どうも自分は跳んだり跳ねたり(あ、漢字が同じだ)するのが好きだったらしい。
一番高い段まで跳べるが自慢だったのだが、一度手をついた際にバランスを崩し自分の手の上に全体重をかけて落ちて、酷く手首を捻挫してから、跳ぶのが怖くなってしまった。実際跳び箱の事故は多く、危険性は高い。
跳び箱は、古代ローマで兵士の乗馬の練習のため木馬を使用したことに由来するという。現在使われているものは、19世紀頃にスウェーデンで考案されたのが元になっている。体操競技の跳馬や鞍馬も、跳び箱の進化系だ。

中学の体育では走り高跳びという種目もあり、こちらも走って跳ぶということは跳び箱と似ているが、勝手は随分と異なっていた。そのためどうも体を捻るタイミングがつかめずうまく跳べない。
背面跳びを行なった際、着地するマットがずれていたためその端から頭が滑り落ち、まさに脳天からグラウンドに逆さ落としのように落下したことがある。一瞬あたりが真っ白になった。目から火が出るというのはああいうことを指すのだろう。周囲で見ていたクラスメイト達によると「ゴンッ!」という凄い音がしたそうである。幸いなことに頭頂部に大きなたんこぶ(医学的には皮下血腫もしくは帽状腱膜下血腫)を作っただけで済んだが、危ないところだった。

中学に入学してすぐの頃、体育の授業で2キロ程度の中距離を走ることになった。それまで一度も走ったことのない距離である。
経験がないのでペース配分が全くできず、というか何も考えず最初から最後までほぼ全力疾走してしまった。当然タイムは非常に良く、早速陸上部に勧誘されたが、単に間違って走ってしまっただけだったので、こんな辛いことは二度とやりたくないため、速攻で断った。
その後はすっかり走ること自体億劫になり、高校の毎年恒例マラソン大会(5キロ程度)でもちゃっかり救護班に志願して、走らずに済ませてしまった。

跳んだり跳ねたりするような女子に対して、昔はよくお転婆という言葉が使われたが、活発な女の子の評判が良くないという傾向は、残念ながら今でも変わらない。
1928年に日本人で初めてオリンピックで銀メダルを獲得した人見絹枝の時代から、女子がスポーツをやることへの偏見は根強く存在している。当時から人見はそのような偏見と戦い、女子競技の啓蒙を積極的に行なっていた。
陸上競技では八面六臂の活躍をした彼女だが、競技だけでなく仕事や啓蒙活動などで殆ど休みなく働いた結果、相当身体にも負担がかかっていたのだろう、オリンピックでメダルを獲ったわずか3年後に結核で亡くなっている。
それから既に1世紀が経とうとする今でも、女子スポーツ選手が目立つ発言をしたりすると、すぐ叩かれる風潮は変わらない。それでも彼女達は、もっと速く走りもっと高く跳ぶために、果敢に道を切り開き続けている。

人生には瞬発力と持久力の両方が必要だ。
それを支える体力と精神力を維持して、何歳になっても跳んだり跳ねたりしたいものである。
少女で在るために、走り出そう。
どんなときでも、どこにいても、あらゆる定義から逸脱するために。


登場した言葉:全力疾走
→最後に全力疾走をしたのは、2001年12月18日上越文化会館でミッチーこと及川光博のライヴの終演後。最終の大糸線に間に合わなくなりそうで、人っ子一人歩いていない雪の降りしきる上越市内を、厚底ブーツで駅まで全力疾走しました。
今回のBGM:「SAWAYAMA」by Rina Sawayama
→国も人種も性別も軽々と超えて走り続ける人は素敵だ。


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