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桜の花が苦手だった話

今日は4月11日。

4月の入学シーズンも終わり、今週に入ると全国的に葉桜が目立つようになった。

桜は綺麗で、そして華やか。

桜は言わずと知れた、日本を象徴する花である。

古文や和歌においても「花」と言えば桜のことを指す。

あんなに綺麗な花なのに、パッと咲いたと思ったらあれよあれよという間に儚く散ってしまう、例えるならシャボン玉のような花だ。

今年は桜のシーズンに全国的に雨が続くなどして、例年より桜が楽しめる期間が短かったように感じる。

ここで、タイトルに立ち戻る。

私は、つい最近まで桜があまり好きになれなかった。

何故なら、桜は人の命に例えられるから。

何年か前に亡くなった祖母がいよいよ……という時に

「来年の桜が見れるまでもつと良いのですが……」

と、医師から告げられたことも大きい。

恐らくだが、「余命◯ヶ月」と言うと露骨すぎるので、このように時期になぞらえて告げるのだと思う。

3月末、既に寝たきりで動けない祖母に、「桜の写真を見せてあげなさい」と母に言われて、小さなスマホで近所の桜の写真を見せた。

もう認知症も進み、意識が混濁としている中で無理やり見せられる桜は、祖母にとって価値はあったのだろうか、と思ったのだ。

桜を見せるのはこちらの自己満足ではないのか、と自問自答した。

祖母はその年の6月に皆に看取られながら亡くなった。

医師に「桜が見れる頃か……」と言われるまでに何度か危ない時もあった中で、かなり長く生きてくれたと思う。

だが、その件もあり、桜はしばらく好きにはなれなかった。

人の命は、何故儚い命である桜に例えられるのか。

少しでも長く生きてほしいと願う相手の寿命を「桜が見れる頃」に例えるのは、あまりでも残酷なのではないか。

桜の花は美しいということは頭の中では分かっているのだが、祖母が亡くなって数年間は、桜に愛着や価値を感じることができなかった。

この時期は「また、桜か……」と思い、お花見スポットを避けて休日はずっと家にいた。

今年の春は、そんな自分に転機が訪れる。

そのきっかけは、散歩であった。

最近は仕事を辞めたこともあり、近所を中心に散歩の楽しさに目覚めるようになったのだ。

春うららかな日に、群生で咲く花々や草木を見つけながら歩いていると、民家や公園など、あちこちにソメイヨシノが植えられていることに気づいた。

長い間気づかなかったが、私の地域もこんなに桜があったのだと驚いた。

そして、気づいたのだ。
今年の桜は、綺麗だったということに。

名も知れぬ近所の川沿いに咲く桜

1年のうちこの時期にしか咲かない花だからこそ、日本人にとって愛おしさを感じる存在なのだと。

私は長い間、桜を避けるようにして生きてきた。

桜は花開く時を待ち続け、毎年同じ場所で春を告げる。ただそれだけなのだ。

花としては儚く散ってしまうが、新緑の季節を迎え、紅葉して落葉し、厳しい冬を耐え、そしてまた来年も春を告げてくれる。

同じ場所で何十年とそびえ立つ桜の木は、春を象徴するどんなものよりも、力強い存在なのかも知れない。

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