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あの日から13年

⚠️この記事では、東日本大震災が起きた当時のことを扱っています。

私自身は当時関東圏に住んでいて直接被災した訳ではありませんが、災害のトラウマがある方や苦手な方はブラウザバックをお願い致します。



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能登半島地震から2ヶ月あまりの月日が経ちました。

自宅が全壊するなどして避難所生活を強いられている人や車など自主避難をしている人も大勢いらっしゃいます。

断水から復旧していない地域もあり、復興にはかなりの時間を要すると思われます。

水が使えないということの不便さ、不衛生さは計り知れないほど深刻で辛い状況であることは、現地の方々の声を聞いていると痛いほど伝わってきます。

さて、2024年3月11日は、東北や関東を襲った東日本大震災から丁度13年になります。

2011年当時関東圏に住んでいた私が地震が起きた瞬間の様子、人との関わりなどについてお話したいと思います。


当時の私は、関東在住の中学3年生。
あと数日で卒業を控えていた。

その日は、金曜日。

地震が起きた時間帯は、ちょうど中学最後の家庭科の授業が行われている最中だった。

調理実習という名の3年生お疲れ様会という感じで、それぞれの班が具材を持ち寄って和気藹々とサンドイッチを作っていた。

サラダにフルーツに、色とりどりのサンドイッチ。
楽しい雰囲気の中、まさにこれから作ったサンドを皆で食べようとしていたところ。

時刻は、14時46分。

「……?なんか揺れてない?」
「地震だね」

皆が作業を止めた。

そして次の瞬間、ガタガタガタガタ、と、一気に激しい揺れに襲われたのだ。

やばい、やばいやばいやばいやばい。

周りの皆が大きな机の下に隠れた。
「キャー」と叫ぶ生徒もいた。

私は側から見たら多分冷静に振る舞っていた方ではあったが、実際には一瞬何が起きたのか分からずにフリーズしてしただけだった。

それでも、これは只事ではないと思って皆と同じように隠れるしかなかった。

私たちは子供の頃から、「地震が起きた時は机の下に隠れるように」と避難訓練で教えられている。

でも、明確に命の危険を感じて机の下に潜ったのは、これが初めての経験だった。

家庭科室の実習用の机だったので、1つの大きな机に5、6人が身を寄せ合って隠れたことを鮮明に覚えている。

教室内では特に何か大きな物が落下することもなく、今思えば火を使う作業はなかったのが本当に幸いだったと思う。

もしも火を使っていて、慌てていたならば、二次災害が起きててもおかしくはなかったはずだ。

その後は先生に連れられて校庭に避難。

校庭には全校生徒約300人が集まっていた。

この時点でも私は呑気に「確かにちょっとひどい揺れだったけど、なんか大袈裟じゃないの?」と思っていた。

今思えば正常性バイアスのようなものがかかっていたのかもしれない。

まだ肌寒くもある3月の校庭に避難して数分後、あるクラスメートが咄嗟の判断で、技術家庭の授業で作った手回しラジオの電源を入れてくれた。

皆が彼のラジオに聞き入るように集まった。

そのラジオの音声から、どうやら東北の方で地震があったらしいことを知ったのだ。

校則で携帯電話も持っておらず、何の情報も手に入らなかった私たちは、彼のおかげで情報を耳にできて、ある程度精神的余裕が生まれた。

その後は授業を切り上げ、急遽下校することに。

心配して迎えに来る保護者も何人かいた。

本来は私たちのクラスで食べる予定だったサンドイッチは、他クラスの人たちや後輩たちに分けることになった。

今思えば先生方の提案だったのか、それとも生徒の誰かが提案したのか分からない。

だが、後輩たちがホッとした面持ちで「美味しかったです、ありがとうございました!!」とお礼を言ってくれたことを、今でも忘れられない。

1クラス分なので1人あたりのサンドイッチの分け前は決して多くはなかったけど、たとえ1口でもお腹を満たせば多少は不安も軽減されたんじゃないかな、と。

怖い時、辛い時こそみんなで助け合いをしようという気持ちを再認識した瞬間だった。


家に帰ると、母が心配した顔で出迎えてくれた。

「あんた、大丈夫やったか?」と。

母は地震の間、小さな身体で42インチの液晶テレビを必死に押さえていたそうだ。

後から母に話を聞いたところ、「この中で1番高価だった家電は何だろう?」と直感で考えた結果「テレビだ」と思ったとのことだった。

揺れてる間、ずっと倒れないように抑えていて、気が気でなかったとしきりに言っていた。

地震の怖さそのものよりも、高い家具家電をこの手で守らなければ、と言う思いが先行したのだろう。

後から知ったことだが、母以外にも家具や家電を抑えていた人は多かったそうだ。地震が起きた瞬間を捉えた一般家庭のカメラでも、冷蔵庫を抑えている人もいたので。

テレビをつけてみると、津波によって数百台の車がぷかぷか浮いている光景が飛び込んだ。

普段は重要な移動手段である車も自然の力には無力だということを、報道を通して知ることになった。

かねてより東北地方では「津波てんでんこ」という言葉が伝わっているように、やはり、自分の足で高台に逃げるということが何よりも大事だと。

被害を受けた映像そのものも見ていられないほど怖かったが、各地の震度や被害状況を映すテロップ、大津波警報や津波警報で日本列島の海岸が赤や紫色にぴかぴかと点滅するさまは、果てしない恐怖をおぼえた。

今でもその光景を思い出す。

私の自宅の被害状況は、何か高い物が壊れたとか家が傾いたとか、そのような被害は幸いにもなく、自室の本棚から本が散乱した程度だった。

父はというと、当時、千葉県内で会社員として勤務していたので、帰宅困難者になってしまった。

地震が発生した11日はその日のうちに帰れなかったので、1泊して自宅に帰ってきたことを覚えている。

液状化現象によってアスファルトが割れてマンホールが隆起したのを見たと、父は話していた。

「浦安震災アーカイブ」より

私はテレビ画面越しに被害状況を見るだけだったが、建物が崩壊するだけではなく、地盤が隆起したり、ひび割れたり、自然災害に人間は敵わないのだなと改めて思い知ったのだった。


3月11日の翌日・翌々日は、土日だったので休日だった。
学校も休みなので、自宅にいたが、東北や関東の被害状況がずっと流れていた。

中でも一番衝撃的だったのは、「仙台・若林区の荒浜で200〜300人の遺体を発見」というニュースだった。

津波に飲み込まれて亡くなった人が、今見つかった段階でもそれほどの数いるということに、本当に日本で起きたことなのかと現実を受け入れるのに、かなりの時間がかかったことを覚えている。

※実際には180人ほどだったらしく、後にこの報道は誤報であることがわかった。

ニュースの合間に挟まれるのは、ACのCMばかり。
それがこんなにも異様で苦しいとは思わなかった。

CMの内容自体に罪はないのだが、「またこのCMか……」とうんざりするのと、甲高い「エーシー♪」の声がやたら耳について苦痛だったのと、ぽぽぽぽーん。

全国から多くの苦情が寄せられたのか、世の中にはもう、ぽぽぽぽーんは流れることはない。

CM自体は良い啓発CMなのだが、流した時期、頻度が完全に悪かったと思う。

世の中の企業が自粛を求められるとこんなふうになるんだな……と、恐怖さえ感じた。

また、自分にとって最も怖かったのは、緊急地震速報の警報音だった。

余震が起きる度に、自分の街の防災無線でも何回も流れた。

また、デマのようなものも耳に届くことになる。

クラスメートからは、「コスモ石油が火災になって有害物質が降るらしい」という旨のチェーンメールが送られてきた。

私はにわかに信じがたく、そのメールを回さなかった。

当時はほとんどの人がガラケーで、SNSがまだ普及してなかったが、災害によるデマや混乱はこの頃からもあったのだ。

翌日の新聞で、コスモ石油の件はデマということが書かれていた。

「あのコスモ石油の件は嘘だったんだよ」と、その切り抜きを、チェーンメールを送ったクラスメートに見せた。

すると彼女は、

「だって、あの時は仕方なかったじゃん」と、言ってきたのだった。

なんというか、一言謝って欲しかったな。

確かにね、災害時は誰もが混乱するし、不安を煽る情報を見ると、精神状態が不安定になりがちだ。

だが、有事において、出処の分からない情報を拡散させる行為は、更なる混乱を生む。

にわかに信じ難い情報は安易に拡散させないように気をつけようと、自戒も込めて思ったことだった。
これは現在のSNSにおいても同じことだと思う。

色々あったが、東日本大震災の4日後の3月15日に卒業式を迎えた。

式の最中に、東日本大震災の犠牲者に対して、黙祷をした。

ショックだったのか、興味がないのか、誰も地震のことには触れてなかったし、卒業を惜しみながら泣いている生徒もいた。

私はとてもじゃないがそんな気分にはなれなかった。
中学3年を通して、あまりクラスに馴染めてなかったというのもあったが。

式の後は、まっすぐ帰宅した。
そしてずっと食いつくように、テレビで被害状況を追っていた。


月日が経つと、誰かの経験談を聞くこともあった。

高校に入り、仙台の学校から赴任されてきた先生が地震が起きた当時の話を、涙目になって震えながら話す姿が脳裏から離れなかった。

私たち関東地方も経験した揺れだったが、こちらは震度5強であり、先生は震度6強を経験されたのだ。

無理して話さなくていいのに、と思ったが、彼女も伝えようとしたかったのかもしれない。ただ、頷いて聴くしかなかった。

また、当時応援していたとあるミュージシャンのライブに参戦した時、東北から来た同年代の女の子がいた。

彼女に「地震大丈夫だった?」と思わず聞いてしまった。
「強く揺れたけど、両親も無事だったよ」と気丈に振る舞っていたけれど、内心とても辛かっただろうし、思い出したくなかったと思う。

今思えばあんなことをこちらが気軽に聞いていいものではなかったと今になって反省している。

震災について口を開かない被災者も、今なお多くいるという中で、高校生の自分には、そこまで考えを及ばすことができなかった。申し訳ないことを聞いてしまった。

そして、東日本大震災が起きてからの13年間の間も、大きな災害は各地で起こっている。

熊本地震、北海道胆振地方地震、そして今回の能登半島地震。

被害状況はその土地の地形によって変わるし、地震による土砂崩れや火災に巻き込まれて犠牲になった人もいる。

災害自体は人間の力でコントロールできない。だから各自での備えが大事であり、命を最優先にする行動をとらなければならない。

あれから、自然災害に対する報道もかなり変わったように思う。

東日本大震災以前は、アナウンサーも落ち着いた声で「逃げてください」と言っていたが、

テレビの前の私たちに危機感を持たせるように行動することを促すように、叫びながら「逃げてください」と、アナウンスするようになった。

緊急時に対する報道のあり方が大きく変わった。

中でも「東日本大震災を思い出してください」という一言は、とても大きかったと思う。

今回の能登半島地震でも241人の方々が犠牲になった。

もし、報道が今までのように落ち着いたトーンだったならば、もっと犠牲者が出ていたのかもしれない。

仮設住宅の受付も始まっているが、先行きの見えないストレスを抱える中での生活は本当に大変だと思う。

東日本大震災で被災した地域も、13年前と比べると見違えるように復興が進み、活気を取り戻すようになった。

しかしいまだに福島第二原発付近の市町村は、帰宅困難区域となっており、完全な形での復興は何十年も先のことになるのだろう。

改めて被害に遭われて亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、1日も早い復興をお祈り致します。

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