闇と光の弁証法

都市生活をしていると気が付かないもんなんだが、
ド田舎で生活すると、夜というのはすさまじく暗い。暗いというよりは闇。
満月でもなければ細かくはほとんど何も見えないし、森に関してはまったくの黒になる。

人間というのは予測できないものに・知りえないものに恐怖を覚えるようにできているのだけど、
当然この「闇」というのは、おそらく古来から人間の恐怖の象徴みたいなもんだね。

単に暗いとかよく見えないとかならいいんだが、その闇からいろいろな蠢く音・気配が伝わってくる。すると、こちらからは「知りえない」のに、向こうからは見られているような気分になってくる。これがさらに恐怖を掻き立てる。

こういう時にもちろん我々人間は、有史以来し続けてきたように、「光で照らす」策に出るよね。当然。
恐怖の対象である「闇」を「光」で覆ってしまえば、そこにあるものを、少なくとも対等に「見る」「知る」、できればこちら側がより相手を知り尽くす。それができれば、恐怖はなくなる。確かに。

しかし、
わたしは、夜道をライトで照らすことで事足れりとするような態度を推奨しない。暗闇をに潜むモノをライトで照らして把握しようとるする態度を無粋だと、愚だとすら思う。現実的にも、象徴的にも、ね。

そんな時に恐怖と自己とを克服する方法は、自らも闇に溶け込む方向性になる。実際は闇と光との両方を使い分けることになるが…
自分がよく見えていないものを照らして知るのではなく、自分をその一部として、自分の独立性のレベルを落として、背景のほうに神経を張る。そうすると恐怖=自己を守る衝動をかなりの程度放棄できるし、光で照らすよりもはるかに生々しい情報が手に入るようになる。

これはできる人ならやっている、知の基本的な技法でもあるのだろうね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?