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映画『はちどり』の感想

映画『はちどり』を、滑りこみで見ることができた。監督のキム・ボラにとって本作は長編デビュー作で、韓国では2019年、日本では2020年6月に公開されている。(以下、ネタバレあり)

はちどり

『はちどり』の舞台は、1994年の韓国・ソウルだ。主人公のウニは、女子校に通う中学2年生で、家族とソウル郊外の団地で暮らしている。

ウニの家は、世界文学全集がオブジェとして本棚に並んでいるような中産階級として描かれている。父親の営んでいる餅屋は繁盛しており、両親ともに非常に教育熱心だ。いっけん恵まれた家庭のように見えるが、家父長的な雰囲気の下で、子どもたちは抑圧されてもいる。家族揃っての食卓では、父親が「食べなさい」と声をかけてからようやく食事がはじまるし、気軽に会話のできる雰囲気ではない。私の周囲でこの映画が話題になったのも、家父長的な雰囲気に加えて、ウニの家と自分の実家を階級的に重ね合わせることが容易だったからだろう。

勉強が苦手な姉のスヒは、塾をさぼって彼氏と遊び呆けては、毎晩のように父親に怒鳴りつけられている。優秀な兄のデフンは、ソウル大への進学を嘱望されているが、過度なプレッシャーによるストレスから、しばしばウニに手を上げる。たまに、姉をかばった母親にも父親の怒りは飛び火して、猛烈な夫婦喧嘩がはじまる。家庭は崩壊寸前のようにも思えるが、翌朝になると何事もなかったかのようにまた家族が続いていく。ウニは、そんな家庭に違和感を感じながらも、ただ黙って眺めているしかない。家に誰もいない時に、ウニがチヂミを手でちぎりながらガツガツと食べるシーンは印象的だが、彼女にとっては、ひとりでいる方が気楽で安心なのだ。

ウニの居場所は家庭にないし、かといって学校にあるわけでもない。「絶対、ソウル大に合格するぞ!」とシュプレヒコールをあげるクラスの雰囲気(ある友人は、関西に実在する中学受験専門塾Nを思い出したと言っていた)には馴染めず、無気力な学校生活を送っている。
途中、付き合っているのかどうかよくわからない医者の息子が出てきたり、自分に熱を上げる後輩の女の子・ユリと親密になったりするが、ユリは、長期休暇が明けると「前の学期のことです」とウニの前からあっけなく去ってしまう。女子校にはありがちな同性の先輩・後輩の強い結びつきや、思春期特有の、自分に向けられる好意の波をサーフィンするように生きているがゆえに移ろいやすい交友関係は、私もかつて女子中学生だった時に経験したものだ。キム・ボラ監督はインタビューで、韓国にある、少女たちの感性を卑下するような「女子中学感性」、「少女感性」といった言葉に対して、女子中学生の話を真剣に取り扱いたかったと発言しているが、その試みはかなり成功していると思う。

日々所在なさげに過ごしているウニが唯一心を開いている大人は、彼女の通う漢文塾の先生、ヨンジである。ソウル大学を休学中というヨンジは、本棚にマルクスの『資本論』が並んでいたり、労働運動でよく歌われたという「切れた指」を歌ってくれたり、政治運動に挫折した人物であることが示唆され、ウニを「ここではないどこか」へと誘うキャラクターとして登場する。

物語中盤、右耳の下にできたしこりが気になっていたウニは、手術のために入院することになる。そこで、「もしかしたら傷が残るかもしれない」という医者の言葉に、それまで威厳を保ち続けてきた父親は突如として(兄のデフンも含め、この映画の男たちは、ちょっと変なタイミングで泣いてしまう)号泣する。このシーンには、家父長的なものへの違和感が象徴的に表現されていると思った。
父親は、ウニを「個」としては見ておらず、「自分の家の娘」として見ているため、ウニ個人が顔の傷を気にしているかどうかよりも、娘の顔に傷がつくこと自体に動揺しているのだ。普段の高圧的な態度とのちぐはぐさに、ウニは父親からの愛情を感じるよりも先に、不信感を募らせたのではないだろうか。

お見舞いにきたヨンジは、「誰かに殴られたら立ち向かって。黙っていたらダメよ」とウニを諭す。しばらくして退院すると、ヨンジはすでに漢文塾を退職しており、行方不明になっていた。ウニは、ヨンジから届いた小包の住所を頼りに家を訪ねたが、彼女はソンス大橋が崩落するという大事故に巻き込まれ、亡くなっていたのだ。ウニからすると、突然、道しるべとなる存在が失われてしまう救いのない展開だが、この映画はここで終わる。

『はちどり』に描かれた94年の韓国は、旧態依然とした家父長的な文化と、激化する学歴競争文化が混在した社会だ。物語の最終盤、ウニは姉と兄と共に、早朝、親の目を盗んで崩落した橋を見にいく。ソンス大橋の崩落は、韓国社会にとって近代化の歪みがもたらした事件として記憶されているが、ウニのような子どもたちもまた、時代の歪みによる被害者であった。宙吊りのまま終わるこの映画が不思議と暗くならないのは、その後の韓国におけるフェミニズムの盛り上がりを私たちがすでに知っているからかもしれない。ウニはもう橋の向こう側へ渡れたかもしれないが、私はまだ橋の手前でたたずんでいるような気もする。




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