86歳、タイ人フォトグラファーが歩む「好きなことに没頭する人生」
2023年10月、タイ・バンコクの大型商業施設「True digital park」にて、写真展『Traversing Time Through The Lens』(レンズを通して時を超える)が開催された。
ギャラリーには、古き良きタイの豊かな日常が切り取られた62点の作品が展示。大勢の来場客で賑わった。
「今日の日を迎えられて、心から嬉しく光栄に思います」
こう穏やかな笑顔で語るのは、バンコク出身のチャイロッド・マハダムロンクル氏、86歳。創業1964年、タイを代表する宝飾品メーカー「コスモ・グループ株式会社」の創業者だ。
現在は、従業員4000名以上が在籍する同社の会長を務めている。
そんな彼のもうひとつの顔が、現役フォトグラファー。本写真展の作品を手掛けた人物である。
チャイロッド氏は70年以上に渡り、タイ各地を旅しながらシャッターを切り続けてきた。経営者とフォトグラファー、二足の草鞋を履く男の半生をたどってみよう。
15歳に始まる写真の旅
1937年、チャイロッドは父親が時計事業を経営するマハダムロンクル家の末息子として生まれた。
彼が初めてカメラを手にしたのは、10歳のとき。5つ年上の兄がくれた、コダック製のボックス型ブローニーカメラだった。物珍しく触っているとたちまち夢中になり、何度もシャッターを切った。
「もっと写真がうまくなりたい」
15歳のとき、父と深く親交があった著名な写真家タック・メン氏に自ら弟子入りを志願した。タック・メン氏はラーマ9世(故プミポン前国王)を始め、タイ王室のポートレートカメラマンとして活躍した経歴を持つ。
チャイロッド少年は毎週末、バンラック地区にある師匠のスタジオに足を運び、撮影の手伝いをしながらカメラの基礎を教わった。
「光と影の使い方、構図、レンズの選び方……写真の繊細で奥深い世界に魅了されましたね。先生から学んだテクニックは、必死にノートに書き留めました」
当時、彼が好んだ撮影場所は、王宮前広場(サナームルアン)だった。スリウォン地区の自宅から1 時間 2 バーツでレンタルした自転車をこぎ、広場に通う日々。凧上げをする人々などを被写体に撮影に励み、スタジオに戻るとモノクロフィルムを現像した。
タック・メン氏は、たびたび愛弟子に助言した。
「一瞬一瞬に魂を込めろ。お前が切り取った世界を、1枚の写真に表現するんだ」
ある日、タック・メン氏のスタジオで、当時最先端のカメラとして人気を博していた「バルナックライカIIIg」に出会う。その瞬間、衝撃が走った。
「完全に一目惚れでした。スタイリッシュでかっこよくてね。機能性も素晴らしく、どうしようもなく欲しくなってしまったんです」
しかしライカは高額で、チャイロッド少年の貯金で到底賄える代物ではなかった。諦めきれず、スイスで時計バイヤーとして働いていた兄に懇願。すると、次のような条件が提示された。
「お前が次の期末試験でクラス5位以内に入れたら、買ってやってもいいだろう」
チャイロッドは必死で勉学に明け暮れた。その結果、見事クラスで5位以内にランクイン。ブラックとシルバーのボディが光るライカIIIgを手に入れたのだった。
師匠に真新しいカメラを見せるため、飛び跳ねるようにスタジオに向かったあの日を忘れることはない。
イギリス留学で出会った「ピクトリアリズム」
翌年、チャイロッドは英語留学のため、ライカと50ミリ単焦点レンズを携えて渡英した。そこから3年間、17歳までロンドンの寄宿学校で暮らすことになる。
カメラはいつでも彼の相棒だった。休日になると、ロンドンの街に出て友人のポートレートや日常風景を撮影。夜は盗難防止のため、ライカをマットレスの下に隠して眠った。
現地の高等教育を修了後は、ロンドン大学に進学。そこで工学を専攻する傍ら、セント・マーチンズで芸術の勉学にも励んだ。ファッション、建築、車、眼鏡、電化製品など、教科は多岐に渡った。
セント・マーチンズは当時、コダック社やイギリスの写真用品メーカー・イルフォード社がスポンサーだった。学生たちには使用期限が切れる寸前のフィルムや現像液、定着液などが無料提供され、彼らはいつでも暗室を利用できたという。
チャイロッドがイギリス滞在中に大きな影響を受けたのが、ピクトリアリズム(絵画主義)だ。1885年頃にロンドンに端を発し、一世を風靡した写真の潮流である。
当時、写真は芸術として認められておらず、記録性のみが注目されていた。その風潮に対し、すでに芸術としての地位を確立していた絵画の方法論を模倣することで、写真の芸術性の確立を目指す動きが広がったのだ。
「写真はアートになりうると考えていた私は、ピクトリアリズムに心底共鳴しました。そこからですね、ピクトリアル・アートの研究に傾倒するようになったのは」
彼が初めて写真の仕事で報酬を得たのは、大学2年生のとき。ロンドンの公園で出会ったイギリス一家に写真を気に入られ、「君をフォトグラファーとして雇いたい」と依頼された。
この出来事は、後のフォトグラファーとしてのキャリアに繋がる小さな一歩となった。
経営者と写真家、2足の草鞋
大学卒業後はスイスへ渡り、時計デザイナーとして現地の企業に5年勤務。そこで次第に、「スイスの時計産業に関わる新事業を母国で起こしたい」という野心が芽生え始める。
タイに帰国した1964年、27歳のとき、バンコクで現在のコスモ・グループを創業。以来、スイスの高級時計メーカーと提携し、オーダーメイドの時計の文字盤やバックルなどを製造する宝飾品メーカーとして、急速に事業を拡大させていった。
経営者としての才覚を発揮したチャイロッド氏。一方で、写真に対する情熱も絶やすことはなかった。休日になると、カメラを携えてタイ各地を巡り、多種多様な生活様式や伝統文化に触れ続けた。
「出発はたいてい金曜の夕方でした。チェンライ県を旅したときは、山奥で鮮やかな伝統衣装を纏った山岳民族に遭遇してね。その集落の近くにテントを張って、彼らの日常風景を朝から晩まで撮影させてもらったんです。自給自足の暮らしとか、女性たちが川で洗濯する風景とか。彼らとの交流は本当に豊かだった。そうそう、山には明かりがないので、レフ板が必需品でした」
彼の好奇心は尽きることがなく、数十年に渡って何千人もの人々の暮らしを切り取り続けた。タック・メン氏の教えの通り、一瞬一瞬に魂を込めて。
「ある時期はキノコにハマり、深い森のなかで時間を忘れて撮影に没頭しました。シンプルなようで、光と影のバランスがすごく難しいんですよ。納得のいく写真が撮れるようになるまで、4年もかかりましたから」
写真家としての功績
チャイロッド氏の写真家としての活動は、単なる趣味にとどまらなかった。
「あるとき友人から、『作品を写真コンテストに応募してみたら?』と提案されましてね。腕試しとして興味本位で送ってみたんです」
するとその実力を高く評価され、2000年にタイで開催された「第1回全国写真コンテスト」で最優秀賞を受賞した。
さらに2009年には、全米写真家協会(PSA)が主催する世界的権威のあるコンテストで5つ星賞を受賞。「世界のトップ10フォトグラファー」としても6度ランクインした。
「やっぱり嬉しかったですね。もっと写真がうまくなりたい!という情熱が再燃するきっかけにもなりました」
記憶に残る2枚の写真
「私にとって大切な写真が2枚あるんです」
1枚は、チャイロッド氏が60歳のときにアユタヤ県で偶然撮影した、巡礼中の僧侶の写真だ。その日、彼は友人と、別の撮影からバスでバンコクに帰る途中だった。
「あれは18時半ごろでした。バスの窓から僧侶たちの姿が目に留まって、突き動かされるように降車したんです。撮影の許可を取り、ベストなアングルを考えて三脚を設置して、『私が3つ数えたら、10秒ほど静止してほしい』と彼らにお願いしました。蝋燭の灯りが揺らめいて、そこに浮かび上がる祈りの姿も、黄昏時の空も、息を呑むほど美しかった」
フジクロームのベルビア50というフィルムで撮影したこの写真は、その後、世界的な数々のコンテストで賞を受賞した。
2枚目は、2003年にタイが主催したAPEC会議の写真だ。
当時の国王ラーマ9世は、APEC当日に国王専用のスパンナホン号を始め、「王室御座船の夜間航行を実施する」と公表した。
この歴史的瞬間を記録に残そうと、外務省は数十名のプロカメラマンを現地に派遣。スパンナホン号の撮影を命じた。
当時64歳のチャイロッド氏も、所属していた写真協会経由でカメラマンとして招集され、慌ただしく撮影の準備に追われていた。
「動きがある被写体の夜間撮影ということで、ISO値を最大に、F値は最小に、シャッタースピードは最速に設定しました。スパンナホン号がフレーム中央にくる瞬間を絶対に逃してはいけない。そのプレッシャーで、ずっとソワソワしていました」
全長約45メートル、57人の漕ぎ手が乗る煌びやかなスパンナホン号が、黄金の光を放ちながらチャオプラヤ川を進んでくる。
ライトアップされたドゥシット・マハ・プラサート殿を背景に、チャイロッド氏は船がフレームアウトするまで連続でシャッターを押し続けた。
翌朝、彼は投函された新聞を見て「えぇ!」と驚いた。歴史に残るビッグイベントにも関わらず、なぜかスパンナホン号の写真がひとつも掲載されていない。 実は、外務省が派遣した写真家は、誰ひとりとして政府が納得するクオリティの写真を撮れなかったのだ。
「その日、私が所属しているタイ写真協会にも、外務省から連絡がありました。『誰か良い写真を撮れた者がいたら名乗り出てほしい』とのこと。それで、自分が撮った写真を送ってみたんです」
外務大臣はチャイロッド氏の写真を一目見るなり、「素晴らしい!」と手を叩いて喜んだ。結果、写真は国の歴史的資産として登録され、タイ政府や外国人ジャーナリストに合計数百万バーツで買い取られたのだった。
「この出来事がきっかけで、写真家としての仕事依頼が一気に増えました。人生なにが起こるかわかりませんね(笑)」
芸術性と物語性を1枚に込める
チャイロッド氏にとっての “良い写真”とはなんだろう?
「芸術性と物語性を併せ持つものです。その一瞬に人間や自然界の本質を捉え、感情やストーリーを1枚で表現する。これこそが、私が長年追求してきたピクトリアルアートなんです」
また彼の写真は、タイの古き良き伝統や文化を後世に伝えるという意味でも、大きな役割を果たしている。
「私がこれまでに撮影した風景の多くは、残念ながら現存しません。美しい伝統衣装を纏い、茅葺き屋根の下で生活を営む山岳民族と出会った集落も、10年ぶりに再訪すると一変していました。彼らはTシャツとジーンズ姿でオートバイにまたがり、セメントの家に住んでいました。時代は変わるんです」
彼が過去70 年間に撮りためた数万点以上の写真は、市民が利用するタイ国立図書館に寄贈される予定だという。
好きなことに没頭できる人生は楽しい
チャイロッド氏は86歳になった現在も、ほぼ毎日会社に出勤し、経営陣との会議をこなし、休日になるとカメラを片手に出かけている。その底知れぬバイタリティはどこから湧き出てくるのだろうか?
「好きなことに没頭することです。ビジネスも写真も大好きなんですよ。なにか夢中になれるものがある人生は楽しい」
実は、チャイロッド氏の86歳の誕生日に今回の写真展を企画したのは、娘のグレースだった。
「 私、父の写真のファンなんです。 これからも父らしい生き方を貫いて、素敵な写真を取り続けてほしいですね」
チャイロッド氏の写真の旅はこれからも続く。
取材・文/日向みく
写真提供/Cosmo Group Co., Ltd.
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