エルサレムとパレスチナ自治区で過ごした7日間
2016年11月、2か月に渡るアフリカの旅を終えた私はイスラエルに飛び、念願の中東入りを果たした。イスラエル経済の中枢を担うテルアビブは、中東のイメージとはかけ離れた先進的な国際都市だった。
エメラルドグリーンの地中海ビーチ、白い砂丘、モダンなビル群。市民は海岸沿いの遊歩道でジョギングやサイクリングを楽しんでいた。物価の高さに震えつつ、自由な風吹く開放的な雰囲気に魅了された。
比較的のんびりと3日間を過ごしたのち、テルアビブからバスで1時間揺られ、首都エルサレムに辿りついた。
オランダから移住したユダヤ人
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「3宗教の聖地」という独特の個性をもった場所だ。宗教や歴史的背景から、その領有権をめぐる紛争が古くから絶えない。
学校の授業やメディアのニュースなどで耳にしていた「イスラエル・パレスチナ問題」の実態を、どうしても自分の目と耳で知りたかった。
ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」のすぐそばで、とあるユダヤ人男性に出会った。彼は家族と共にオランダからイスラエルへ移住し、イスラエル人になったのだという。
ユダヤ教徒であれば誰でもイスラエル国籍を取得でき、二重国籍も認められている。彼は「今は警備員として働いているんだ」と言って、腰に付けた銃を見せてくれた。
思い切って、パレスチナについてどう思うか尋ねてみた。
民泊でお世話になったパレスチナ人一家
エルサレムを拠点に、パレスチナ自治区で3日間の短期滞在をすることにした。エルサレムからキリスト生誕の地とされる「ベツレヘム」までは、バスで約1時間の距離。日帰りで帰ってこれるほど意外に近いのだ。
境界にはチェックポイント(検問所)があるが、行きのバスでは特にチェックをされなかった。バスがしばらく走ると、パレスチナに近付くにつれ、どんどん風景が様変わりしていく。
到着した先にあったのは、ひしめき合う店、人々の活気、雑多な雰囲気。まさにアラブの街だった。すれ違う人が「Welcome to Palestine!(パレスチナにようこそ)」と陽気に挨拶してくれる。
現地では民泊を利用した。お世話になるパレスチナ人一家の自宅は、有名観光地の「生誕教会」から徒歩1分ほどの場所にあった。
夫婦と子ども3人の5人家族。みんな優しく親切で、私を温かく迎え入れてくれた。12月上旬で冷え込みが増すなか、「寒いでしょ」とヒーターを用意し、ホットティーを淹れてくれた。
私と歳が近い長男のアサドには一番世話になった。大人びていて紳士的な彼は、学業に励みつつeコマースの会社を経営している。難民キャンプを案内してくれたり、中東料理レストランに連れて行ってくれたり、本当によくしてくれた。
次男のルスランは純粋で優しい青年だった。彼は当時、タイ人の彼女と遠距離恋愛中で、同じく遠恋中だった私にいろんな相談をしてくれた。
兄弟に教えてもらって水タバコに挑戦したり、くだらない話で大笑いしたり、忘れられない夜を過ごした。
若きイスラエル兵のあどけない笑顔
パレスチナ滞在初日の昼、タクシーをチャーターして「分離壁」を見に行った。
分離壁とは、2002年からイスラエルがヨルダン川西岸地区との境界に建設している巨大なコンクリート壁のこと。イスラエルは「グリーンライン」と呼ばれるボーダーを超え、パレスチナの領土に食い込む形で壁を建設しているのだ。
分離壁へ向かう途中、車内でドライバーのおっちゃんが言った。
窓から外を覗くと、おっちゃんが指さす遠くの方に、白い建物群が見えた。
分離壁に到着すると、雨天だったこともあり、目の前にそびえ立つ壁が不気味さを増している。
ふと上を見ると、壁の上からイスラエル兵がこちらを監視している。一瞬警戒したが、兵士たちは私に手を振って挨拶してくれた。きっと20歳前後だろう。彼らのあどけない笑顔に心がざわついた。
指を負傷したパレスチナ人ガイド
パレスチナ滞在3日目に向かったのは、パレスチナ南部の街、ヘブロン。ムスリムが多く暮らしており、3宗教の聖地「アブラハムの墓」があるゆえに、エルサレムと同じような複雑な問題を抱えている。
ヘブロンは第三次中東戦争のときイスラエルに占領され、1997年のヘブロン合意までずっとイスラエルの支配下にあった。占拠されたエリアに暮らしていたアラブ人は強制的に追い出され、その区画はゴーストタウンと化してしまったのだ。
ヘブロンで出会ったのが、39歳のパレスチナ人男性、タラールだった。
当初は彼を警戒して申し出を断ったものの、しばらく話すうちに「彼なら任せてもいいか」と気が変わり、ガイドを依頼することにした。
タラールの指には生々しい酷い傷があった。彼は反イスラエル活動をおこなうグループの中心人物で、イスラエル軍から目を付けられていたらしい。2か月前に街で突然、若いイスラエル兵に鈍器で殴られたのだという。
タラールと共にイスラエル軍のチェックポイントを通過し、ゴーストタウンに入る。パレスチナ人は毎回身分証を提示してチェックを受けねばならない。
シャッターがぴしゃりと閉じられ、静まりかえったスークを歩く。
ふと上を見ると、銃を持ったイスラエル兵がこちらを監視していているのに気付き、ギョっとした。
天井に張られたネットは、上の階に住むユダヤ人が嫌がらせでパレスチナ人めがけて投げてくるごみや卵の落下を防止するためのものだ。
ゴーストタウンを歩いていると、突然目の前で、イスラエル兵がパレスチナ人男性を取り押さえ、幼い子どもたちの前でジャケットを取り上げ始めた。一体なにごと!?
ショックを受け唖然とする私の横を、人々が平然と行き交っていく。そうか、ここでは日常の光景なんだ。
ガイド終了後、タラールとカフェでいろんな話をした。彼の話を聞き漏らすまいと、必死にメモをとった。
39歳の彼には奥さんと幼い子供がふたりいる。だが今は怪我の影響もあり、収入がほとんどない。彼は「今月の水道代と電気代が払えそうにない」とつぶやいた。
私ができたのは、彼にガイド料を払い、コーヒー1杯をご馳走することだけだった。
ユダヤ人入植者の家で受けた親切
タラールに別れを告げ、ゴーストタウンを散策中に、どうしてもトイレに行きたくなってしまった私。
近くの家のチャイムを鳴らし、「すみません、トイレをお借りしてもいいですか?」と尋ねると、青年が快く自宅のトイレを貸してくれた。どうやらユダヤ人入植者の家のようだ。
彼が「母さんの手作りケーキ、よかったらどう?」と言って、見ず知らずの私に紅茶とブラウニーをふるまってくれた。そして、その場に集っていた6人の若者と挨拶を交わす。
彼らは私の世界一周に興味をもち、彼らの旅についても語ってくれた。
私がこれから向かう予定のインドについても、いろんなアドバイスをくれた。とても親切で優しかった。
ベツレヘムに戻ったころには日が暮れて、周囲は真っ暗。街のあちこちにクリスマス装飾がなされ、広場では賑やかなイベントが催されていて、穏やかな日常があった。
明日、パレスチナを発つ。広場でアサドに再会して感謝の気持ちを伝え、ハグをして別れた。
部屋の窓から花火が打ち上がるのを眺めていたら、自然と涙が頬を伝った。感情がぐちゃぐちゃで、私はとても疲れていた。
パレスチナ人兄弟との別れ
パレスチナ出発の朝、突然「ルルルルル」と、ルスランから着信があった。と同時に「ピンポーン」と家の呼び鈴が鳴り、慌ててドアを開けると、なんとルスランが立っているではないか!
びっくりなサプライズに感極まって涙が溢れた。しかも彼は、高校の授業をサボってわざわざ戻ってきたのだという。おいおい、嬉しいけど、いいのかよ……(笑)
ルスランは私の重い荷物をバス停まで運んでくれた。
「荷物、重いでしょ!大丈夫?」と聞くと、「最近鍛えたんだよ」と、自慢の筋肉を披露してくれた。
ありがとう。またきっと、帰ってくるね。
◇
あれから6年が経った。当時現地で見聞きし肌で感じたことはあまりにも強烈で、無知ながらもイスラエル・パレスチナ問題の根深さを思い知った。
私が出会った人たちはみな優しくて、だからこそ辛かった。イスラエルとパレスチナ双方にそれぞれの正義があり、その背後には世界各国の思惑が渦巻いている。
圧倒的な軍事力でパレスチナを抑圧するイスラエルに非難の目が向けられる一方、イスラエルという国はユダヤ人迫害の悲劇のうえに成立したという事実もある。
宗教とはなにか、正義とはなにか。答えの出ない問いに対し、知恵を出し合って議論し、目を逸らさずに向き合い続けることが、私たちに求められているのかもしれない。
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