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土足で入ってこいよ

コミュニケーションに飢えている。
それが偽物であっても、自分に向けられる好意(のようなもの)に安心感を覚えてしかたがない。

むかしからそうだった。不良のパシりに使われる時、そこに仮初めの暖かさがあるだけで惨めさと同じくらいの嬉しさがあった。自販機の前で財布をわすれて困ってるやつに奢ったことすらある。たった120円で友達のような気になれるのだから、安いもんだった。

「ナメられる」というのは僕にとって当たり前の状態であって、怒りを覚えるようなことじゃなかった。毎日ちょっと気分が曇ってるだけのことだ。
周りの人間が不良にたいして憤っているのが、すこし不思議だった。

僕たちはダサいし、話すのは下手だし、喧嘩だってできやしない。
そのすべてを持った人間がこちらを下に見るのは当然のことだと思っていた。むしろ、友達が強い感情をこめて話す恨み言を聞くたびに、僕はひどく惨めな気持ちになった。

働きもしない者が貴族に怒っているようにみえたんだ。べつに1軍の彼らの位が高いというわけじゃないけど、妙な居心地のわるさを覚えていた。

無礼だからってなんだ。嫌われるよりよほどいいじゃないか。
見下されることに苛立って彼らを拒絶するより、それを受容して笑いあえるほうがいい。


この理論が正しくないことは、ついぞ僕に一軍の友達ができなかったことが証明しているのだけど。


ー冒頭ですこし嘘をついた。

ほんとうに欲しいのは、僕を好いていると確信が持てない相手からの好意だ
自分が嫌ってる相手からでさえ「あぁよかった」と安心するし、好きな人ならなおさら安心する。とても。とても。

「ナメられている」という状態は、嫌われている状態からは遠いようにおもう。どちらかと言えば好きに近い状態じゃないか。こいつは自分を侵害しないという、安心感。
そして、その安心感はナメてる相手の心へ土足あがることをよしとする。グシャグシャに踏み荒らされたプライドがみなの拒絶につながるのだろう。

わかるよ。わかる。どっちの気持ちもよくわかる。僕だってナメてるし、ナメられたらやだよ。怒るほどじゃないってだけだ。

その上で、僕はそれでもいい。それでいい。

きな。土足で入ってこい。その汚い好意で安心させてくれ。そしたら僕は笑顔になるから。
そんな糞みたいなやり取りをくり返して、いつのまにか本当に好きになればいいじゃんか。

ーそんな夢を、ずっとみている。

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