noteを始めてから、他人への視点に体温が生まれた。
むかしの僕はほんとうにダメなやつだった。努力はできないし、そのくせ武器もない。自信のなさを隠すための、偽物の自信だけがあった。
なんにもできなくて、いろんなことに怯えていた。でも、あの頃の僕は優しかったと思う。心に波たつのは自分の弱さばかりで、人を見下すようなことはなかった。そもそも見下せるだけの土台が自分になかったんだ。
いまの僕はそれなりに色々できる。あいかわらず努力はできないけど、いくつかの武器をもってる。失敗して凹むこともあるけど、消えない自信がある。
ただ、そのせいで人へ苛ついてしまうことが増えてしまった。
むかしは見ても小さなストレスでしかなかったことが、手にいれた武器のせいで大きなストレスへ勝手に増幅される。
自分が持っているものを相手も持っていないことが妙に腹立たしくなってしまう。その実、こちら側のフィールドに来てほしいわけではない。そのイライラの正体は、人を見下すことで得る醜い自己肯定だからだ。
消えない自信と言ったけど、消したくないだけなのかもしれない。
根本的劣等感から目線をそらし続けているから、いつのまにか誰かを見下さないと自己肯定できなくなってしまった。
結局怯えているのに変わりはない。だったら、そんな自信捨てちゃっていいはずなのに。それにすがって、見下して、また勝手に苛つくんだ。
*
そんな僕だけど、noteをはじめてからは少しだけ優しさを取り戻せた気がしている。
この場所のメインコンテンツのひとつ、エッセイ。そこには様々な人の生活があって、リアルな感情の動きが感じられる。それを読んでいると、他人への目線へすこしずつ体温がうまれていくのがわかった。
話がすこし逸れるけど、亭主関白になるかどうかはお母さんが苦しそうな顔をしていたかどうか大きな条件としてあると思う。平気な顔をして激務をこなしているのをみていると、それが当たり前になっちゃうんだ。逆にお母さんの大変そうな様子をみていたら「こんなに苦しめちゃいけない」と思って、あんな旦那にはならないぞ決意する。
人の苦しんでいる姿をみないと優しくできないなんて、どうかしてると思うけど。でもそれが僕だからしょうがない。
理不尽な父に傷つけられる母をみて、あんな奴にだけはなるもんかと思っていた。その構図を社会やほかのことへも当てはめて考えられたならいいのに、僕は想像力がないのだ。
でも、noteのエッセイを読んでいると、みなの苦しみや喜びがしっかりとそこにある。不透明だった人々の生活に、ちゃんと色がついていくのを感じる。
この場所に来る前の僕は、他人はみんな平気で生きているとおもっていた。でもいまは、そうじゃないっておもえる。
noteのおかげで、他人への視点に体温が生まれた。
あいかわらずどうしようもない奴だけど、おかげですこしは優しくなれたかもとおもう。
実は6月で1周年だったんだけど、どうも内容が浮かばなくて記念記事を書けずにいた。
感謝をこめて。
ありがとうnote。これからもよろしくね。大好きだよ。
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