見出し画像

彼らの悲しみの一つ。

夕方近く、テイクアウトのおかずを買いに、家から離れた住宅街にあるレストランへ。少しでも散歩ができればと思い、遠めのところに車を停めて、歩く。途中、コーヒースタンドに寄って、カフェラテを買う。最近、コーヒーを飲むと、まれに胃がもたれたように感じることがあるのだが、カフェオレならその心配はない。空は透き通った水色。光はやわらかく降り注ぐ。こじゃれた家の門からこぼれる白と黄色のモッコウバラが愛らしい。“What a wonderful world!” という感じだ。この世界には、まだまだ美しいものがあるのだなあ、などとしみじみ思う。

レストランでは、いつでもお客が食事を楽しめるよう、大きなテラス窓を開け放ちながら待っている。今はまだ、訪れるお客はいないようだけれど。静かにお客を待っているテーブルと椅子を眺めていると、お店のオーナーの方が対応してくれた。いつもおしゃれハットとおしゃれめがねを身につけ、シンプルな洋服を身にまとった、“デザイン事務所の社長”といった雰囲気の人だ。

軽い挨拶の後、今日のお品書きの中から、家で焼くだけの状態になっているラザニアを選ぶ。それを袋に入れて手渡してくれるオーナーさんの肩越しに、色とりどりのワインボトルが天井まで並べられた棚が見えた。これまでにも何度か見ている棚だが、どうしてだか今日に限って、見覚えのあるボトルが目に飛び込んできた。あの鶴のエチケットは、山形のワイナリー、「グレープリパブリック」のワインだ。東京で暮らしていたころに、友人に教えてもらったワインで、よく二人で一緒に飲んだ。はっきりとおめでたいデザインのエチケットとは裏腹に、優しい味がするワインだ。

なんだか、ほんの少し前の思い出なのに妙に懐かしい気持ちになり、思わず、「あ、グレープリパブリック」と口に出してしまったら、オーナーさんは、「あ、ご存じなんですか?」と返してくれて、そこからしばし、ワイン愛にあふれる話をいろいろと聞かせてくれた。グレープリパブリックは、関西では特に、なかなか手に入らないワインであること。お店には、ナチュールのものを中心として、いろいろとこだわって選んだワインを置いていること。このほど、晴れて「期限付酒類小売業免許」が取得できたので、お店にストックしてあるお酒のテイクアウト販売を早々に始めようと考えていること。

そこまで聞いて、あることを思い出した。少し前に、ある古書店が営業自粛に伴い、急遽、通販を始めるために、店内の本棚の写真を使ったことだった。店舗が休業になってしまうのだから、一刻も早く通販の態勢を整えたい。しかし、商品を1冊ずつ登録した通販サイトを作るには、それなりの時間がかかる。そこで、本のタイトルが見えるように撮った本棚の写真をSNSにアップすることで、その中に欲しい本を見つけたお客がメールやメッセージで問い合わせや通販の注文ができるようにしたのだ。「インターネット通販」という言葉にとらわれない、柔軟なアイデアだと思う。何より、お金も時間も手間も、それほどかからないのがいい。

古書とお酒とでは細かな事情は違うかもしれないが、このやり方はまねできるのではと思い、オーナーさんに紹介してみた。ようやく始められるようになったのだから、極力、省エネで宣伝や販売が実行できるほうがいい。それに、たくさんのボトルが並ぶ棚はカラフルで見栄えがするし、見る人の気持ちも明るくなるだろう。できるだけ少ない負担で、軌道に乗るといいなあ。

オーナーさんは、実はお話好きのようで、話はさらに弾み、気づけば時間がたっていた。やっぱり、家族以外の人と話ができるのは楽しい。笑顔で見送ってくれたオーナーさんも、同じように思ってくれていたのではないか。早く、みんなが安心してお店で食事ができる日がくるといい。レストランをやろうと思うような人は、きっと、お客と話をしたり、お客が食事を楽しむ姿を見たりすることが喜びで、今は、それが失われてしまっていることも、彼らの悲しみの一つなのかもしれない。

(2020年5月8日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?