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⑱「どん底ホームレス社長が見た闇と光」

永遠の別れ

 人間関係においても前向きに捉えられるようになれた頃、市役所から一通の通知が届きました。封筒を開けると「相続税支払い通知書」が一枚入っていました。私は、何のことか理解できずに市役所に電話をしたのです。

 「相続税支払い通知書が届いたのですが、どういうことでしょうか?」。すると職員は「お父様が亡くなられたので長男にあたる人に送らせていただきました」。私は両親が元気に生きていると思っていましたので、もう一度、聞き直しました。返ってきた答えは同じものでした。

 涙が落ちてくるのを我慢して、私は、職員に言いました。「30歳の頃、両親から将来は姉夫婦に面倒を見てもらうから相続放棄をしてほしいと言われ、署名・捺印をしました。ですので、相続税は姉が支払うことになっています」。すると「お姉さんの住所と電話番号を教えていただけますか」と職員。「姉とは縁を切っていますし、どこに住んでいるのかも知りません。そちらで調べてください」と言った後「母親は生存しているのですか?」と尋ねたところ、「お母様は1年前に亡くなられています」という返事が返ってきたのです。

 電話を切るなり、私の目からとめどもなく涙が溢れてきました。両親が他界したことを知らなかったのですから、もちろん葬儀にも出席していません。縁を切られていたとしても、もっと早く電話の1本でも入れておくべきだったと自責の念にかられました。何と親不孝な息子なのだ。自分を責めて悔やんで嘆くことしかできませんでした。

 高齢だった両親のことは、いつも気にはしていましたが、私自身、這い上がることで精一杯で、両親に対する思いが欠けていたのかもしれません。そのことは今でも後悔し続けています。元気になった私の姿を見せてあげたいという思いはあるものの、結局自分中心でしかなかったのでしょう。今の私にできることは、天国の両親に自慢の息子だと思って貰えるような行ないをすることです。


どこまでも両親の子供でありたい 

 両親と最後に会ったのは、私が社員による持ち逃げ詐欺に遭って縁を切られた時です。その頃の私は、疲れ果てて世の中に背を向けていました。両親にとって、その時の私の一番つらい顔が最後でした。もっと元気な顔で別れたかったと今でも思います。何と親不孝な息子だったのでしょう。

 私は長男ですが、何で縁まで切られなければいけないのかと思ったものです。しかし、両親からすれば縁を切ることは、凄くつらかったと思います。こいつなら必ず這い上がってくると信じながらも断腸の思いだったことでしょう。当時の私は、そんな親の気持ちを察する余裕さえありませんでした。いつか見返してやるという反骨心が強かったのです。ライオンは自分の子どもを崖から落とすといいますが、両親も同じ気持ちだったのかもしれません。きっと私よりも両親の方がつらかったことでしょう。

 何歳になったとしても私は両親のことを自慢できます。厳しく躾けられたおかげで、苦境から這い上がることができたのですから。親は親で子は子です。唯一無二な存在なのです。子どもとして最後を見届けることができなかったことは、一生、私の罪として付いてくるかもしれませんが、親に対する気持ちは誰にも負けないと言える自信はあります。今度、生まれ変わったとしても両親の子どもに生まれたいと思います。

 今でも、夜一人でいると両親のことが思い出されて涙することもありますが、泣いてばかりいても両親は喜ばないでしょう。もっと立派になって私たちを喜ばせてくれと言われているような気がする時もあります。それが私を前に突き進ませる原動力の一つにもなっているのです。ご先祖を供養するということは、感謝の気持ちを伝えると共に、自分と向き合い、生きる意味を考える要素もあるのです。

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