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ジャーナリズムよ。私の記者20年日誌Ⅱ <10> 2022年2月

前回に続き、新聞通信調査会が発行する月刊誌「メディア展望」2022年2月号に書いた記事を紹介します。「新聞の『信頼』揺るがす逆風の数々 選挙報道も大転換期に」と題した記事では、まず昨年10月31日に行われた衆院選の事前調査について振り返りました。続いて取り上げたのは、検察庁法改正案をめぐる報道です。新聞、放送など政治部という部署を抱え、そこに精鋭を投入すしているはずの大手メディアが問題点を整理しきれずにいる中、ひとりの女性が発したひとつのツイートが大きな世論のうねりをつくり出し、週刊文春の報道がその流れを決定づけました。大手メディア、オールドメディアは自戒と自省を求められる結果になりました。

◆検察庁法改正案の波紋

2020年5月、検察庁法改正案をめぐる混乱では政界も官界も「信頼」を深く損なう結果になった。しかし、最も「信頼」を失ったのは新聞ではなかっただろうか。この問題は日本のジャーナリズムの現状に多くの問いかけを発している。
周知のように、検察庁法改正案は、退官予定の黒川弘務・東京高検検事長を検事総長にするために政権が人事介入を画策したと批判された。しかし、法案が閣議決定され国会で審議が始まった当初、新聞の報道はそうした問題点をとらえているとは言い難かった。せいぜい与野党双方の主張を紹介する程度にとどまっていた。与野党の議席数からみても成立は確実とみていたと思える。状況を一変させたのは5月8日に投稿されたツイートだった。会社員の笛美さんが「#検察庁法改正案に抗議します」と訴えると、有名人が次々と呼応し大規模なツイッターデモへとつながった。そして、5月18日、安倍首相は突然、法案の見送りを表明する。「文春オンライン」が黒川氏と産経の記者2人、朝日の元検察担当記者1人が一緒に賭けマージャンをしていたと報じたのは、安倍氏の表明から2日後のことだった。ツイッターデモに「文春砲」が加わり、確実とみられていた法案成立を阻んだ。黒川氏は5月22日付で辞職した。

この問題を考える手がかりとして、東京新聞の望月衣塑子記者が著書「報道現場」(角川新書)で行った提起を紹介しました。取材対象に密着する「アクセスジャーナリズム」は、私も徹底して追求するよう教えられてきたものです。その価値は、もちろん今でも大切にしなければなりません。しかし、それで「事足れり」とできる時代はとうに過ぎていることも痛烈に教えられました。

◆問われるアクセスジャーナリズム

検察庁法改正案前に新聞はどんな仕事をしたのか。東京新聞の望月衣塑子記者は著書「報道現場」(角川新書)の中で、賭けマージャンの評価をめぐる記者と社会との「溝」を、自身の戸惑いにも言及しながら丹念に追っている。その指摘には共感するものが多い。
正直に告白すると、私自身、文春の報道を見た時、「産経と朝日はやるなあ。なぜうちの記者はそこにいなかったのか」との思いがよぎった。ジャーナリストの大谷昭宏氏は毎日新聞に「記者は取材相手に食い込むために、お酒を飲んだり、マージャンやゴルフをしたりすることもある。まして黒田氏は検察でいえばナンバー2だ。同業者として複雑な思いもあり、建前で語りたくない」とコメントした。これは、当時の多くの記者たちの心情を映し出した言葉だと思える。このコメントについて、池上彰氏は朝日新聞のコラム「池上彰の新聞ななめ読み」(5月29日朝刊)で「簡単に切って捨てるわけにはいかないという思いがにじみ、好感が持てました」と指摘し「自分が現役の記者時代、とてもこんな取材はできなかった」「朝日の社員は、検察庁の担当を外れても、当時の取材相手と友人関係を保てているということだろう。記者はこうもありたい」とも記した。
しかし、社会の評価は違った。渦中の人物と賭けマージャンするのが記者の仕事なのか、という厳しい批判が起きた。望月記者は特捜検察を担当した記者でもあり、自身の過去の仕事についても自問自答している。そして、密着取材を続ける「アクセスジャーナリズム」(望月記者は「抱きつき取材」と表現)の問題点を提起した。「まずはこれまでの取材方法がすでに社会の常識と乖離してしまっていることを認めるところから始めたい。なぜ記者クラブに入っていない週刊誌が、政治家の問題をスクープできるのか。なぜ会社員のツイートが大きなうねりを起こせたのか」
「信頼」は果たすべき役割を果たしてこそ得られる。それを改めて肝に銘じたい。

次の論点として、ソーシャルメディアによりかかった形の報道について考えました。ネットの世界を「対岸の火事」のように眺める姿勢が今のマスメディアには散見されます。それは、とても危険なことだと考えます。

◆他人事のような「炎上」報道

新聞の「信頼」を損なう事態は、他にもある。例えば今、新聞も放送も「炎上」という言葉を使わない日はない。「○○の発言が炎上」とネット上の出来事を取り上げる記事が頻繁に登場する。「炎上」記事は、お手軽でつくりやすい。SNSには炎上の経緯がすべて記録され、スマートフォンを見ながら誰でもどこでも簡単に記事が書ける。SNSの画面を使えば写真や動画もすぐに用意できる。いわゆる「こたつ記事」と呼ばれるものだが、「足で稼ぐ」はずのジャーナリズムの観点からは決してほめられない記事だ。「炎上」は特定の人を標的に、多くの人が一斉に非難や批判をする「いじめ」や「リンチ」に類する行為だ。当事者を自殺に追い込む悲劇も起きている。その「炎上」に乗る形で記事化を続けることが報道機関に求められる姿なのか。批判すべきことがあれば、自らの考えで行うべきあり、自分たちには累が及ばないところで「炎上」と報じることが社会からどう評価されるのか、強く自戒すべきだろう。
記者は、良くも悪くも部数や売り上げなどの数字をあまり気にせずに発信してきた。しかし、ネット時代に入り数字がリアルタイムでわかるようになると状況は大きく変わった。読者の存在が可視化され多くのことを学べた一方で、閲覧回数を増やすため仕掛けに走るケースも起き始めた。2017年10日19日付産経新聞の一面コラム「産経抄」のネットニュースには「日本を貶める日本人をあぶりだせ」という見出しがついた。これは「反日をあぶりだせ」と「意訳」もされてSNSで拡散した。ところが本文には「あぶりだせ」という表現はなく、コラムの内容も見出しとは違い、「あおり」のそしりを免れないものだった。当時は、見出しのつけ方で閲覧回数が変わり広告料金にも反映されることが認識され始めた頃だ。「ネット受け」を競う報道は、「信頼」喪失と隣り合わせでもある。ニュースの価値判断について、ネットのランキングに委ねる報道が増えていることにも憂慮を覚える。
◆ユーザーに依存する「落とし穴」
ユーザー発の情報は報道の中でも大きな存在を占めるようになった。今は災害や事件事故の報道にユーザーが撮影した写真や動画は欠かせない。スマホに加えてドライブレコーダーの普及がそれを後押ししている。中でも「あおり運転」は、その動画が繰り返し報道されたことで大きな社会問題になり、法改正で「妨害運転罪」が新設された。暴力をふるう容疑者の動画は確かに衝撃だった。ただ、冷静に考えると、あおり運転は「車間距離保持義務違反」として年間1万5000件も摘発されてきた。そのうちの数件が動画の拡散ゆえにことさら強調され、過剰制裁を引き起こした可能性もある。最近では、賽銭泥棒の報道も問題だと考える。賽銭泥棒はれっきとした犯罪だが、防犯カメラの映像のために、繰り返し報道され、容疑者の連行映像まで流されるのは過剰制裁ではないのか。この他にも民放ニュースには軽微な事件の連行映像が目立つ。私が現場で取材していた頃、捜査員が容疑者の送検日時や場所だけを教えてくれることがあった。連行映像は記者にとって特ダネになる。警察からすれば守秘義務違反を回避しながら事件を大きく報じてもらえる。記者と警察の共存関係の中で、容疑者が過剰制裁を受けることになっていないか。これも強く自省が求められる。

そして、最後に、やはり気になってしかたがない小室圭さんと眞子さんの結婚へのバッシングについて言及しました。私は、このバッシングを機に、時代が悪い方向へ曲がり始めたと危惧します。

◆増える新聞スルーと新聞パッシング

言論や表現の問題にもかかわらず、新聞が存在感を示せない事例も増えている。2021年の出来事で私が最も将来への禍根を懸念したのは、眞子さまと小室圭さんのご結婚への「誹謗中傷」だった。「炎上」の矛先が皇族にも向けられたことに衝撃を受けた。象徴天皇制は国民の皇室への敬意と信頼を礎にしている。その国の根幹を揺るがしかねない事態にも思えた。
 眞子さまと小室さんへの「誹謗中傷」の多くはヤフーコメントに投稿された。対応を迫られたヤフーは、人工知能(AI)を駆使して違法コメントの総量制限に乗り出し、制限を超過した場合はコメントを非表示とする措置を導入した。世界的にプラットフォーム(PF)責任論が強まる中、ヤフーの措置は当然であり、さらなる改善も求められていくだろう。ただ、残念なことに、この問題にあたって、新聞は自ら動いて状況を変えようとする姿勢が希薄だった。PFとユーザーの問題にとどめるのではなく、新聞が主体的に動き、論陣は張り、対話の場を設け、行政をも巻き込む形で国民的議論創出の役割を担うべきだったのではないか。この大切な局面で「新聞スルー」「新聞パッシング」が起きてしまっていた。
 ネットのコメント欄は他国の情報工作の標的になる懸念もある。ヤフーコメントにロシアの関与が伺えると報じられた(メディアの「コメント欄」が情報工作の標的になる=平和博氏、ヤフー個人2021年9月27日)(毎日新聞2022年1月1日朝刊)。他国の諜報機関が、日本を混乱させるために皇族への中傷を画策するという想像力は持つべきだろう。新聞は長く「ネットは自分とは違う世界」だと思い違いをしてきた。もう怠慢は許されない。新聞の新しい調査報道力が求められる。
2021年10月現在の新聞総発行部数が新聞協会から発表された。3302万7135部で前年比5.9%減、206万4809部減。5年間で900万部以上も減る深刻な事態ではある。ただ、新聞力は今、紙の部数でのみ語られる時代ではない。部数減によって委縮する必要もない。伝えるべきことを伝える。新しく、時代に即した方法を編み出して届ける。使命はここに尽きると思う。
覚悟と情熱、絶えまない創意と工夫が、苦境を打開すると確信している。

次回からも、これまでの講演や論文をもとに、ジャーナリズムの同時代史をみていきます。


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