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2023大阪公立大学/国語/第一問/解答解説

【2023大阪公立大学/国語/第一問/解答解説】

〈本文理解〉
出典は能楽師、有松遼一の随想『舞台のかすみが晴れるころ』。
1️⃣ コロナで舞台がなくなったとき、家の整理や稽古のほかに、本を読んでいた。…読書の面白いのは、著者が、時間や空間を超えて自分と同じ地平に立ち並び、対話を引き受けてくれることだ。じっさいに著者に話を聞こうと思ったら、アポイントをとって手土産を用意して、それはもう骨の折れることだ。ましてや著者の心奥にダイブして大切な何かを汲み上げるなんて、そんな一大事業、簡単には実現しない。しかし本は、それを惜しげもなく伝えてくれる。「その日その場所に立ち現れては消える時間芸術に携わる身にとって、本の力はうらやましい」(傍線部(1))。書きものに秘められた静かなエネルギーに敬意を表しつつ、何かを感取して思いを馳せたい。…

2️⃣ 花土(はなのふ)、珠寶さんの『一本草』には、はじめて緊急事態宣言が出たころの春にであった。花土というのは、花に仕える者、という義だそうだ。…珠寶さんは、いけ花のなかでも、古式に則った「立花」、花を立てるという洋式で空間をしつらう。鋭く静かな花だ。作品というより、そこに立つ花、という表現が合う。粉飾をそぎ落としたシンプルなありようは、能とも通じる格式の美しさを感じる。…自粛期間中にぼんやりと考え、ことばに留めてみたいと思った舞台での知見や経験が、ほとんどこの珠寶さんの本に結実していた。実直なことばがあった。そのいちいちに共感し、感動した。
「花は生きています。花をいけたりたてたりするときも、できるだけ素早く仕事をする方が、花を弱らせずにすむのかと思います。…わたしも、献花の時間は、あっという間に終わります。ですが、依頼を受けてから、その当日を迎えるまで、ずっとその日のことをイメージして過ごしています。そして当日を迎え、花瓶の前に座った地点で、「花をいける前にほとんどのことが終わっているのです」(傍線部(2))」(珠寶『一本草』)。

3️⃣ 珠寶さんは、教室の生徒さんたちに「三十分で今日の花はできますよ」と言う。お稽古時間が一時間なら、多くの人はその時間をめいいっぱい花を触ることに使おうとするらしい。「行為と成果を時間という物差しで評価してしまう。十五分かけたものより三十分かけたものの方に価値があり、一時間かけた方がもっと価値がある、という錯覚です」。一分一秒は、誰にも等しく与えられたものだが、その内実まで均一というわけではない。…もの差しをあてがうのなら、表面にあらわれる時間だけではなく、見えない水面下のはたらきも勘定に入れて、はじめて評価ができるだろう。そして、本番にいたるまでのさまざまな準備、訓練、心づくしに接して、推計し、ひいては「人生すべては修行」という理にいたるとき、「その物差しはもはや馬鹿らしくなって放り出される」(傍線部(3))。…
「花がかわいそうです」ということばに、ハッとする。人間社会の便宜である数値や単位はわかりやすく便利で、慣れしたしんでいるが、独り歩きして花がおいてけぼりになっている姿を想像してしまった。

4️⃣ 舞台とその記録物でも、思うことがある。映像だけを見て、謠や型を真似し芸をつくるということは、大変危険だ。舞台はいつもなまものであり、その場の気韻からさまざまな要因が出来して一つの結晶になる。違う風が流れれば違うかたちが生じる。その風を感取し表現する術を教わるのが師の稽古であり、それなくして芸たりえない。稽古を受けて映像を参照するのはまだしも、映像をもって稽古と同じくするのは、浅見だ。映像だけでは、その場で仕方なく対処した術が堂々の正攻法として誤伝されることもあるだろう。記録はミスや誤謬を伝える恐ろしさをもっている。「見える部分というのは、わかりやすくもあり、あやまりやすい」(傍線部(4))。目に見えるものが価値あるもの、可視化できないものは存在しないのと同じ、という価値観をひしひし感じる。でも、それはただしいのか。…

5️⃣ 人を評価するのは難しい。目に見える成果や数値、その物差しに頼ってしまうのは、人の、モノやヒトを見る目が弱っていることと不可分ではない。「見る目がない」ということばを引くまでもなく、舞台裏ばかり雄弁に語る言説、荒唐無稽な陰謀論、内輪でしか通用しない楽屋落ちのようなものたちが、世の中にあふれている。…
海外公演のレセプションでは、あの場面のこの演技が印象的だったとか、それを見て自分はどう考えたとか、舞台表現としてどういう意味や歴史があるのかとか、それぞれ自分の鑑賞眼をオープンにしてこちらにかかってくる。通ぶって逃げ隠れせず、堂々と自前の審美眼で対峙してくれる。油断すると圧倒される。私も知っていること、思うことを存分に話して楽しむようにしている。自分の眼や舌に自信がないと、蘊蓄や周辺の知識に寄りかかってしまうかもしれない。「ヒトやモノを確かに見、味わうことは、自分の評価軸を不断に点検し、対象の内部に迫ることで達成される」(傍線部(5))。つまりはその人が、どういう人生を送っているか、豊かな生き方をしているかどうかということになるのだと思う。


〈設問解説〉
問一「その日その場所に立ち現れては消える時間芸術に携わる身にとって、本の力うらやましい」(傍線部(1))について、筆者が「うらやましい」と言うのはなぜか、わかりやすく説明せよ。(70字程度)

理由説明問題。「本の力」を「時間芸術」である能と対比的に説明し、後者に携わる筆者には望めないものだから、とまとめるとよい。「本の力」については、傍線部より4文前の「読書の面白いのは、著者が、時間や空間を超えて自分と同じ地平に立ち並び、対話を引き受けてくれることだ(a)」を参照するとよい。能=「時間芸術」については、傍線部の前半を「本の力」と対比が明確になるように自らの言葉で言い換える(b)。翻って「本の力」についてもa要素に加え、傍線直後の「書きものに秘められた静かなエネルギー…(c)」を参考にし、「時間芸術」とは異なる「時間」軸にあることを示す。
以上より、解答は「静的な時間の中で(c)/時空を超えて著者が現れ読者との対話を実現する読書のあり方は(a)/刹那的な時間の中で表現を強いられる(b)/能楽師の筆者には望めないから」となる。

〈GV解答例〉
静的な時間の中で時空を超えて著者が現れ読者との対話を実現する読書のあり方は、刹那的な時間の中で表現を強いられる能楽師の筆者には望めないから。(70)

〈参考 K塾解答例〉
一回限りの表現で消えゆく能のような時間芸術とは異なり、本は、いつでもどこでも、著者との対話を通してそこに秘められた意義深い思念を読み取ることができるから。(77)

〈大阪公立大学 出題意図〉
本文のこれ以降の内容を理解するための導入として、筆者が携わる舞台芸術の一回性について理解できてるかを問う。筆者の言う「時間芸術」と「本」を対比させて説明する。


問二「花をいける前にほとんどのことが終わっているのです」(傍線部(2))とはどういうことか、わかりやすく説明せよ。(100字程度)

内容説明問題。2️⃣ 3️⃣は、能との類比で、いけ花(立花)の本質についての説明を、花土、珠寶の言動に求める部分である。傍線部は2️⃣の引用部の結びにある。「花をいける前に/終わっている/ほとんどのこと(A)」と、いざ「花をいける」ときに残っていること(B)、について述べるとよい。Aについては、同じ引用部から「依頼を受けてから、その当日を迎えるまで、ずっとその日のことをイメージして過ごしています」が参照できるが、これを筆者が言い換えた箇所「本番にいたるまでのさまざまな準備、訓練、心づくし(3️⃣)」と併せて用いればよい。Bについては参照できる箇所はとくにないが、Aからのつながりで、「本番は事前のイメージ通りに花が収まるだけにする」くらいにしておけばよいだろう。
さらに、解答スペースに余裕があるので、引用部冒頭の箇所「花は生きています。花をいけたりたてたりするときにも、できるだけ早く仕事をする方が、花を弱らせずにすむのかと思います」を、傍線部の行為にいたる背景の説明として加えておくとよい(C)。以上をより、解答は「いけ花においては生きている花を弱らせないように素早く花を立てることが大切なので(C)/本番に至るまでに十分な準備と訓練、本番のイメージが完了していて(A)/後は自然と花が収まるだけにしておく必要があるということ(B)」となる。

〈GV解答例〉
いけ花においては生きている花を弱らせないように素早く花を立てることが大切なので、本番に至るまでに十分な準備と訓練、本番のイメージが完了していて、後は自然と花が収まるだけにしておく必要があるということ。(100)

〈参考 K塾解答例〉
命を宿した生き物としての花を労り、献花の手仕事を素早く済ませるために、依頼を受けてから、生け方について一心に思いをめぐらし、粉飾をそぎ落とした「そこに立つ花」のイメージを完成させておくということ。(98)

〈大阪公立大学 出題意図〉
傍線部以降の内容を理解するために重要となる「時間という物差し」について、まずは献花という具体例に即して考察するための問題。引用文で述べられている内容を、わかりやすく解釈して示す。


問三「その物差しはもはや馬鹿らしくなって放り出される」(傍線部(3))とはどういうことか、「その物差し」がどのような基準を指すのかを明らかにしつつ、わかりやすく説明せよ。(100字程度)

内容説明問題。「その物差し(A)」を具体化するのはもちろん、それが「馬鹿らしくなって放り出される」に至る経緯・背景として、傍線直前の内容(B)も解答に書き込む必要がある。Bについては、直前部の記述をベースに情報を取捨して「珠寶の立花における/本番にいたるまでの準備、訓練、心づくしに接して/人生の過程が修行だという理を悟ると」とする。
Aについては傍線部の前後、3️⃣の範囲から「行為と成果を時間という物差しで評価/均一/人間社会の便宜である数値や単位はわかりやすく便利」という要素が抽出できる。そして、AはBの認識により「放り出される」ものだから、Bと対照的になるようにAをまとめると、「人間社会の便宜として/行為と成果を時間という均一の基準で/量的に計るあり方」となる。つまり、マクロな「人生の過程が修行だ」という認識からすると、ミクロな「行為と成果」を均一の時間で量的に計るあり方は、「馬鹿らしく」ナンセンスなのである。
以上より解答は、「珠寶の立花における本番に至るまでの準備、訓練、心づくしに接して人生の過程が修行だという理を悟ると(B)/人間社会の便宜として行為と成果を時間という均一の基準で量的に計るあり方が(A)/無意味に感じられるということ」となる。

〈GV解答例〉
珠寶の立花における本番に至るまでの準備、訓練、心づくしに接して人生の過程が修行だという理を悟ると、人間社会の便宜として行為と成果を時間という均一の基準で量的に計るあり方が無意味に感じられるということ。(100)

〈参考 K塾解答例〉
時間のありようは人によって異なるばかりか、物事の成就にはさまざまな準備や訓練、心慮が尽くされているものであり、人生全体もそのような事前作業であるという道理に思い至れば、行為と成果の価値を均一な時間や金銭の多寡で計ることなど意味をなさなくなるということ。(127)

〈大阪公立大学 出題意図〉
問二を踏まえ、目に見える、数字で測れる基準では対象の本質的価値は評価できない、という筆者の主張を理解できているかを問う。「物差し」「馬鹿らしく」なる、ということの内実をわかりやすく説明することが求められる。


問四「見える部分というのは、わかりやすくもあり、あやまりやすい」(傍線部(4))とはどういうことか、能の稽古の例に即してわかりやすく説明せよ。(100字程度)

内容説明問題。「能の稽古」に即して、「見える部分」の「わかりやすさ」「あやまりやすさ」をそれぞれ述べるわけだが、筆者の力点は後者にある。また、傍線部は筆者の判断なので、その根拠も合わせて説明する必要がある。解答根拠は4️⃣の範囲から抽出する。ここで「見える部分」というのは、「映像だけを見て、謡や型を真似し芸をつくる(a)」ことについて、である。もちろん、これがそれ自体「わかりやすい」のは自明。しかし「記録はミスや誤謬を伝える恐ろしさも持っている(b)」(傍線直前)と筆者は見るのである(→「あやまりやすさ」)。
なぜか。これは能とその稽古の本質に関わることである。すなわち「舞台はいつもなまものであり、その場の気韻からさまざまな要因が出来して一つの結晶になる(c)/その風を感取し表現する術を教わるのが師の稽古であ(る)(d)」からである。以上より解答を構成すると、「舞台は場の気韻から諸要因が出来して結晶化するものであり(c)/その気韻を感取し表現する術を教わるのが能の稽古である以上(d)/映像から芸を真似ることは分かり易い反面(a)/稽古の本質から逸れ/誤謬も伝わり易いということ(b)」となる。解答ではb要素の前に、映像は能の稽古の本質である気韻を伝えない、よって「稽古の本質から逸れ」る、という要素をブリッジし、「あやまりやすさ」の必然性をより一般的に示しておいた。

〈GV解答例〉
舞台は場の気韻から諸要因が出来して結晶化するものであり、その気韻を感取し表現する術を教わるのが能の稽古である以上、映像から芸を真似ることは分かり易い反面、稽古の本質から逸れ誤謬も伝わり易いということ。(100)

〈参考 K塾解答例〉
そのときその場の舞台の気韻から生まれ出るさまざまな要因が作用して芸が形を結ぶ能においては、そうした目に見えず感取するしかない気韻に合わせて表現する術を教わるのか稽古であり、映像を見て真似るだけでは生きた芸の内実を伴わないその場しのぎの稽古で終わってしまうということ。(133)

〈大阪公立大学 出題意図〉
問三の考察を受け、見える部分だけで判断することの危うさを説く筆者の主張が理解できているかを問う。傍線部の直前に示されている能の稽古の例に即して、具体的に説明する。


問五「ヒトやモノを確かに見、味わうことは、自分の評価軸を不断に点検し、対象の内部へ迫ることで達成される」(傍線部(5))とはどういうことか、本文後半の趣旨をふまえて、わかりやすく説明せよ。(100字程度)

内容説明問題。「本文後半」がどこからかは自明ではないが、筆者自らが携わる能の研鑽について述べた4️⃣ 5️⃣の箇所と見ていいだろう。ここでは「ヒトやモノを確かに見、味わうこと(→人物や物事の本質を見抜くこと)」を達成する望ましいあり方(傍線部)と合わせて、そうでないあり方が対比的に述べられている。後者については、とくに4️⃣の部分を受けた5️⃣の冒頭の箇所「人を評価するのは難しい。目に見える成果や数値、その物差しに頼ってしまうのは、人の、モノやヒトを見る目が弱っている事と不可分ではない(a)」、また傍線直前の「蘊蓄や周縁の知識に寄りかかって(b)」を参照すればよい。
一方、望ましいあり方、すなわち「自分の評価軸を不断に点検し(c)/対象の内部に迫ること(d)」については、傍線部の認識に帰結する「海外公演のレセプション」での体験について述べている箇所が参照できる。そこでは「それぞれ自分の鑑賞眼をオープンにしてこちらにかかっくる(e)/堂々と自前の審美眼で対峙する(f)/わたしも知っていること、思うことを存分に話して楽しむようにして話すようにしている(g)」。ここでの相手の態度(ef)は、当然自らの態度としても要求されるものである。これらefgの要素を、傍線部自体の表現cdと併せて「望ましいあり方」の説明とすればよい。
以上より、解答は「人物や物事の本質を見抜くには/便宜的な数値や周縁の知識に頼ることなく(ab)/日頃から他者に曝け出し(e)/批評を受け鍛え上げた(c)/自らの鑑賞眼・審美眼だけを頼りに(f)/自らを開いて対象の内部に迫っていくしかないということ(gd)」となる。

〈GV解答例〉
人物や物事の本質を見抜くには、便宜的な数値や周縁の知識に頼ることなく、日頃から他者に曝け出し批評を受け鍛え上げた自らの鑑賞眼・審美眼だけを頼りに、自らを開いて対象の内部に迫っていくしかないということ。(100)

〈参考 K塾解答例〉
ヒトやモノには、目に見える成果や数値では決して推し計れない内実が宿されているものであり、皮層で陳腐な知識や見た目に頼らずに、そうしたヒトやモノの内実をしっかりと観取し味得するには、生きようを豊かにするべく日々を送るなかで、物事の本質を見極めうる鑑賞眼を絶えず鍛え上げる努力が必要であるということ。(148)

〈大阪公立大学 出題意図〉
ここまでの設問の考察を受け、本文後半の趣旨をふまえて、筆者が考える「自分の評価軸」の重要性を理解できているかを問う。「自分の評価軸」の内実はもちろんのこと、「点検」や「対象の内部へ迫る」とはどういうことかを、自分の言葉でわかりやすく具体的に説明することが求められる。

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