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2009京都大学/国語/第一問/解答解説

【2009京都大学/国語/第一問/解答解説】

〈本文理解〉
出典は柳沼重剛の随想「書き言葉について」。著者の専門は西洋古典文学(プルタルコス等)。
①段落。若いころ私は、偉い先生の下請けをして、いくつかの百科事典の執筆をやった。申し訳ないが、あれは今から思えば「ありがたい勉強になった」(傍線部(1))。百科事典の執筆はたいてい、項目ごとに「何行」と指定されるが、一般に、何行とか何字とか何枚とかいう、きびしく制限された枠の中で、意味のある、そして分かる文を書くには、的確なことを的確に言わなければならなくて、あの執筆は私にそういう勉強を強いてくれたからである。どの項目についても、まずはじめに、何を書くかを決めるわけだが、これは何を書かずにおくかということと裏腹の課題で、実際には、どんなに手短に言うにしても、これだけはぜひ言わなければならないことは何かを決めることになる。そして次に、それについて手短に、しかし分かりやすい文で書くのだが、この「手短に」と「分かりやすく」というのは、ほとんどつねにたがいに矛盾する要求である。…
②段落。これだけ苦労しても、書いた文章に言葉のむだはまだあるもので、それを削る。とはいっても、多くの場合、書いた本人はそのむだに気がつきにくい。とくに多いのは重複、つまり、Aの文とBの文では、言い回しこそ違っているが、言われている意味はそれほど違わないという場合だが、これは概して、書いた本人はいい気分で、我ながらよく書けたと思っている箇所に多いものである。…
③段落。こうして言葉を削って、このことについてこれだけの字数で言うには、こう書くほかは書きようがない、というところまでもっていく、つまり抜き差しならぬ文章を仕上げる(ただし、抜き差しならぬ文章はすばらしい文章だが、別の見方をすると、遊びのない文章でもあるので、読者を疲れさせてしまうことがある。そこで小説やエッセイ、学校の講義などでは、わざとむだな言葉やむだな文章をちりばめたり、言葉を変えて同じことを繰り返し述べたりすることがある)。
④段落。音読に耐える文章を書くというのも大事なことである。「音読に耐える文章」とは、声を出して読むとすらすら気持ちよく読める文章、あるいは、それを人に読んで聞かせるだけですんなり分かってもらえる文章のことだが、そういう文章の要素として大事なのはリズムだと思う。…もちろん、「リズムがなければならない」といっても、定型詩のように一定の韻律をもてということではない。他の点では詩になっていない文章を、あえて定型の韻律、日本でなら例えば七五調にのせると、詩でも散文でもなく、「阿呆陀羅経になる」(傍線部(2))。そうではなくて、ある文章を気持ちよく読めたとき、この文章にはリズムがあったなと気がつく、そういうようにリズムがあるべきだということである。こういうリズム感を身につけるには、古来名文のほまれ高い文章を音読する、というのが私が若いころよく薦められたことで…大事なのは「音読する」ということである。
⑤段落。しかし、言葉のリズムに関してさらに重大なのは、木下順二「古典を訳す」が提出した疑問である。──『平家物語』巻四「橋合戦」の一節、
「大声をあげて名乗りけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給え。三井寺にはその隠れなし。堂衆の中に筒井の浄妙明秀という一人当千の兵ぞや。われと思わん人々は寄り合えや、見参せん」」
というのを、近ごろはやりの「現代語訳」をして、
「大声をあげて名前を告げていうには、「ふだんは評判ででも聞いていたろう、今は眼でよく見なさい。三井寺では私を知らぬ者はない。寺僧の中の、筒井の浄妙明秀という、一人で千人を相手にするという強い男だぞ。われこそと思うような人は集まってこい、対面しよう」」
と訳したら、これは訳したことになるかという問題である。なるほどわれわれ現代人には「現代語訳」の方が分かりやすいかもしれない。しかし、原文がもっている朗朗とした響きとリズム、そしてその響きとリズムによって、文が力強く読者にせまってくる緊迫感、そういうものはこの「現代語訳」では完全に消えている。そういうものを消してしまった文章で『平家物語』を読んで、そこに何が言われているか分かったとしても、それで『平家物語』を読んだ、あるいは理解したことになるかということである。「むろん、なるわけはない」(傍線部(3)。文というものは分かりやすくなければならないが、さりとて、分かりやすければそれでいいというものではないということの、みごとな例だと言える。分かりやすいだけの文には言葉の生命がない。言葉というものは、意味を伝えるだけに終わるものではないからである。…よく「文学的表現」というけなし言葉が使われている。これはどうやら、簡単なことを飾り立てて言い、まっすぐなことをねじったり曲げたりして言うことを意味するらしいが、そんなことを言うのは、「文学についての無知の表白であるばかりでなく、言葉で本気になって苦労したことがない証拠でもある」(傍線部(4))。言葉を言葉として十分に使いきる、つまり、言葉がもっているあらゆる能力を発揮させることこそ文学の最も重要な仕事なので、たとえ学術論文でも、少なくとも人文系の論文の文章は「文学的」であるべきだというのが私の意見である。


〈設問解説〉
問一 (漢字の書き取り)
(ア) 枠 (イ) 概 (ウ) 範 (エ) 朗朗(朗々)    (オ) 緊迫

問二「ありがたい勉強になった」(傍線部(1))とはどういうことか、説明せよ。(四行)

内容説明問題。まず傍線部とそれに至る本文冒頭の記述「若いころ私は、偉い先生の下請けをして、いくつかの百科事典の執筆をやった。申し訳ないが、あれは今から思えば「ありがたい勉強になった」」。「若いころは…下請け/今から思えば…ありがたい勉強」と整理できるから、若い筆者は嫌々やらされて結構ぶーたれていたのかもしれないが、後に思い返せば貴重な経験となった、特に後の生活において有益だった、ということだろう(百科事典の編集だから、特に断りがなければ筆者は研究者(人文系?←本文末文)だろう)。加えて、傍線部次文「百科事典の執筆は…きびしく制限された枠の中で、意味のある、そして分かる文を書くには、的確なことを的確に言わなければならなくて、あの執筆は私にそういう勉強を強いてくれたからである」以下、①段落から②段落にかけての記述を貴重な経験の内実として間に挟むとよい。大枠はは「著名な先生の下請けとして百科事典の執筆を担当した若い筆者にとっては/厳しく制限された枠の中で…むだを削り書くことは/後の研究研究生活の大きな糧となった」とまとめる。解答は以下の通り。

〈GV解答例〉
著名な先生の下請けとして百科事典の執筆を担当した若い筆者にとって、厳しく制限された枠の中で、何を書くかの選択を行い、手短に分かりやすく、むだを削り書くことは、後の研究生活の大きな糧となったということ。(100)

〈参考 S台N師解答例〉
百科事典の執筆をしたおかげで、必ず書くべきことを決め、言葉の無駄をなくし、これ以外にはないほど手短だが分かりやすい文章を書く、またとない訓練になったということ。(80)

〈参考 S台解答例〉
若いころ百科事典の執筆をした際に、厳格な字数制限の中で意味のあることをわかりやすく、無駄なく的確に表現することが要求され、後で思い返すとそれは文章作成を学ぶ有益な訓練だったということ。(92)

〈参考 T進解答例〉
若いころ下請けとしてやった百科事典の執筆において、厳しく制限された枠の中での的確な表現を強いられたことで、分かり易くて短い文章という矛盾する要求に応え、無駄を削る落してこれしかないという表現にまで仕上げることがどういうことかを理解したということ。(123)


問三「阿呆陀羅経になる」(傍線部(2))とはどういうことか、文脈に即して説明せよ。(四行)

内容説明問題。「阿呆陀羅経」を知識として指摘できる受験生は稀だろうし、ここでは「文脈に即して」その概略と成り立ちを説明するとよい。まずは傍線部の前後の対比に着目する。「他の点では詩になっていない文章を、あえて定型の韻律、日本でなら例えば七五調にのせると、詩でも散文でもなく、「阿呆陀羅経になる」/そうではなくて、ある文章を気持ちよく読めたとき、この文章にはリズムがあったなと気がつく、そういうようにリズムがあるべきだということである」。本来の文章のリズムが実際に読んだ後(音読後)「事後的に」気づかれる自然なものなのに対し(a)、「阿呆陀羅経」においては何らかの文章(自然発生的な文章)があり、それに「あえて」定型の韻律を重ねるというのである(b)。また、その結果出来上がった「阿呆陀羅経」とは、「詩」とも「散文」とも言いかねる、つまり本文の隠れ主題である文章の「文学性」(本文末文を見よ)の欠如した代物としか言えないものとなる、ということである(c)。「他の点(←韻律以外)では詩になっていない文章」を的確に表すのが難しいが、韻律=形式性、阿呆陀羅経=自然発生的な俗謡、詩=象徴性を踏まえて「内容的に/統一性も/象徴性もない一連の文句」とした(d)。
以上より「音読後に事後的に気づく自然なリズムではなく(a)/内容的な統一性も象徴性もない一連の文句を(d)/無理やり一定の韻律に当てはめた文章では(b)/詩とも散文とも言いかねる文学的な性質の欠如した代物にしかならないということ(c)」と解答できる。

〈GV解答例〉
音読後に事後的に気づく自然なリズムではなく、内容的な統一性も象徴性もない一連の文句を無理やり一定の韻律に当てはめた文章では、詩とも散文とも言いかねる文学的な性質の欠如した代物にしかならないということ。(100)

〈参考 S台N師解答例〉
音読すると円滑に快く読め、理解される、音読に耐える文章の要素として大事なリズムを、一定の韻律と誤認し、他の点で詩にならない文章にあえて定型の韻律を与えると、通常の詩や散文以下の滑稽で卑俗な歌謡風になるということ。(106)

〈参考 S台解答例〉
音読に耐える文章の要素であるリズムを単なる一定の韻律と解し、詩としての条件を全く満たさない文章を強いて定型の韻律にのせると、詩でも散文でもない中途半端な低俗な文章になるということ。(90)

〈参考 T進解答例〉
音読に耐える文章を書くことは大切ではあるが、文章としての内実を無視してただ定型化された韻律にのせると、一定のリズムが調子よく繰り返されるだけの軽薄な表現になって、文章そのものにその本質としてリズムを内在する高貴な文章にはなりえない、ということ。(122)


問四「むろん、なるわけはない」(傍線部(3))と筆者が考える理由は何か、説明せよ。(五行)

理由説明問題。「むろん、なるわけはない」というのは、『平家物語』の「現代語訳」でその意味内容が分かったとしても、それで『平家物語』を読んだ、あるいは理解したことにはならない、ということである。その理由は、一つに『平家物語』の原文には「朗朗とした響きとリズム、そしてその響きとリズムによって、文が力強く読者にせまってくる緊迫感」があるが(a)、それが「現代語訳」からは消えている(b)、ということ。そしてもう一つ、より根本的には「分かりやすいだけの文には言葉の生命がない。言葉というものは、意味を伝えるだけに終わるものではないからである」。すなわち、原文ある言葉の生命が(c)、意味を伝えるだけの「現代語訳」では欠けている(d)、ということである。
以上の内容を軸に、以下のように解答を整える。「言葉には意味を伝える媒体にとどまらない生命があり(c)/『平家物語』の原文にも読者に力強く迫りくる緊迫感を与える響きとリズムがあるが(a)//その意味を分かりやすく伝えるだけの「現代語訳」では、音読した場合の響きとリズムを欠き(b)/言葉の生命を読者に伝えきれないから(d)」。

〈GV解答例〉
言葉には意味を伝える媒体にとどまらない生命があり、『平家物語』の原文にも読者に力強く迫りくる緊迫感を与える響きとリズムがあるが、その意味を分かりやすく伝えるだけの「現代語訳」では、音読した場合の響きとリズムを欠き、言葉の生命を読者に伝えきれないから。(125)

〈参考 S台解答例〉
名文のほまれ高い古典の文章を、原文のもつ言葉の響きとリズムやその効果を完全に欠いた、分かりやすいだけで音声面を無視しすぎる現代日本語訳で読むことは、意味の伝達を超える生き生きとした言葉の本質を損なうから。(101)

〈参考 S台解答例〉
文章表現では的確な意味伝達に加えて、音読に耐えることも大事であり、意味だけ分かりやすく現代語訳した『平家物語』は、原文の響きやリズムとそれによって読者が、得る感興を喪失しており、原文がもつ言葉の要素を完全に備えていると言えないから。(116)

〈参考 T進解答例〉
言葉の意味を伝えるだけに終わるものではなく、そこに内在するリズムを伴なって初めて生きたものとして人の心に届く。それなのに、『平家物語』を現代語訳で読めば、そこで書かれたことの意味内容はわかるかもしれないが、原文の持つ響きとリズムを伴って初めて読者に伝わる緊迫感は失われ、作品世界全体は伝わらないから。(150)


問五「文学についての無知の表白であるばかりでなく、言葉で本気になって苦労したことがない証拠でもある」(傍線部(4))のように、筆者が考える理由は何か、説明せよ。(七行)

理由説明問題。2つの述部(=2つの理由の着地点)をもつ傍線部の主部は、「よく「文学的表現」というけなし言葉が使われている。これはどうやら、簡単なことを飾り立てて言い、まっすぐなことをねじったり曲げたりして言うことを意味するらしいが、そんなことを言うのは」の「そんなことを言うのは」である。「そんなこと」の内容を抽象化して「「文学的表現」とは冗長で虚飾に傾く表現をけなす言葉として用いられがちだが、その見方(S)」と主部を置き直す。そのSが「文学についての無知の表白(G1)」ばかりではなく「言葉に本気になって苦労したことがない証拠でもある(G2)」というのである。そのG1およびG2にそれぞれ対応する理由を説明する必要がある(二方面の理由)。
答えの根拠となりそうなのは傍線部直後で、本文末文の「言葉を言葉として十分に使いきる、つまり、言葉がもっているあらゆる能力を発揮させることこそ文学の最も重要な仕事なので(a)」という箇所。この「文学の最も重要な仕事」という言葉に着目してG1の答えの根拠とする、というのは、しかし安易すぎないか。「G1ばかりではなくG2」というときの理由の序列としては普通、G1に対応するのが表層理由、G2に対応するのが深層理由になるだろう。ならば本文構成上、aを含む本文の締めの箇所(⑤段落)がG2の理由の根拠と対応すると考えるのが妥当ではないか。また、aの後に末文の記述が「たとえ学術論文でも、少なくとも人文系の論文の文章は「文学的」であるべきだというのが私の意見である」と承け結ばれることからも、aの内容は「文学」のみの射程に収まらないことが示唆されている(b)。さらに、傍線部を前に遡って、問四でも使った本文の公理、「分かりやすいだけの文には言葉の生命がない。言葉というものは、意味を伝えるだけに終わるものではないからである(c)」もG2の理由の根拠として利用したい。以上より「「文学的的表現」は冗長・虚飾(S)→ただの意味伝達を超えて言葉の生命を伝えるため(c)/言葉のもつあらゆる能力を発揮させるべき(a)/(R2)→「文学的」と否定するのは言葉で本気になったことのない証拠(G2)」とG2への理由の筋を見出せる。
それではG1の理由の根拠(表層理由R1)は?⑤段落の前半の内容はまるまる問四と被るので、設問構成上も根拠となりにくい。そこで、まだ他の解答で使ってない箇所、③段落に着目する。ここは本文前半のまとめにあたる箇所で、まず「こうして言葉を削って、このことについてこれだけの字数で言うには、こう書くほかは書きようがない、というところまでもっていく、つまり抜き差しならぬ文章を仕上げる」とした上で、その後に()付きで「ただし」書きを続ける。すなわち「抜き差しならぬ文章はすばらしい文章だが…読者を疲れさせてしまうことがある。そこで小説やエッセイ…では、わざとむだな言葉やむだな文章をちりばめたり、言葉を変えて同じことを繰り返し述べたりすることがある」。これより「「文学的表現」は冗長・虚飾(S)→文学者は読者への配慮で「わざと」そうする(R1)→「文学的」と否定するのは文学についての無知の表白(G1)」とG1への理由の筋を見いだせる。さらに「わざと」を具体化して、「「文学的表現」は/抜き差しならぬ文章を理解した上での/文学者の読者への配慮」(R1)とすればよい。
以上を踏まえ、長い解答になるので、この場合2文に分け、2つの着地点に2つの理由が配されるように、構成に十分気をつかう必要がある。解答のアウトラインは以下の通り。「「文学的表現」は冗長・虚飾と見なされがちだが、それは(S')/…抜き差しならぬ文章を理解した上での文学者の読者への配慮とも言える(R1)//また一般にも(b)/…言葉の生命を伝えるため言葉のあらゆる能力を発揮させるべきなので(R2)/「文学的」の否定は(S)/それへの理解や(G1)/経験の欠如の露呈だと(G2)/考えられるから」。

〈GV解答例〉
「文学的表現」とは冗長で虚飾に傾く表現をけなす言葉として用いられがちだが、それは言葉のむだを削いだ抜き差しならぬ文章を理解した上での文学者の読者への配慮とも言える。また一般にも、ただの意味伝達を超えて言葉の生命を伝えるため言葉のもつあらゆる能力を発揮させるべきなので、「文学的」を一概に否定する態度はそれへの理解や経験の欠如の露呈だと考えられるから。(175)

〈参考 S台N師解答例〉
「文学的表現」という言葉を、無駄な修飾や歪曲としてけなす意味で使うのは、言葉のあらゆる機能を発揮させることを文学が最重要視していると知らないからである。また、意味の伝達にとどまらず、音読に耐えるだけの、生き生きとしたリズムのある文章を書く困難さをも理解していないから。(139)

〈参考 S台解答例〉
的確な内容が的確に表現された音読に耐える文章は、意味を伝達するだけでなく、聴覚を刺激し、読書の感興をそそる。こうした言葉のもつ全能力を発揮させるのが文学の最も重要な機能である。これを理解せず、また実際によい文章を作る努力をしたこともないために、簡易な内容を過剰に修飾し、無理に表現を屈曲させるのを「文学的表現」と非難するのだと判断されるから。(171)

〈参考 T進解答例〉
「文学的表現」を表現上の無駄な虚飾や屈折した表現を意味する言辞として否定するのは、単なる意味の伝達の道具ではなく、響きやリズムを伴って初めて生気を帯びて人の心に届く言葉の全能力の発揮を目指す文学の本質を知らないからである。さらには、的確で分かり易く無駄のない表現を求めて苦闘すれば、結果得られる文章は読者を疲労させるゆとりのないもので、全ての文章における文学性の必要を筆者のように認識するはずなのに、それも欠けているから。(211)

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