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2017東北大学/国語/第一問/解答解説

【2017東北大学/国語/第一問/解答解説】

#至高の現代文 #東北大学 #高階秀爾 #芸術空間の系譜 #解答比較 #駿台 #河合塾 #大学受験 #予備校 #沖縄 #グレイトヴォヤージュ #国語王 ☠️

2018九大国語/第一問↓↓ #死ぬことと生きること
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2018広大国語/第一問↓↓ #共同体のかたち
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2007東大国語/第一問↓↓ #読書について
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〈本文理解〉
出展は高階秀爾『芸術空間の系譜』。著書は美術史家。
1️⃣(①~③段落)(ルイ14世が中国皇帝に肖像画を贈ったときの逸話。横顔を描いたそれを見て皇帝は「気の毒に、フランスの王様は顔が半分しかない」と語ったという)。このエピソードの歴史的真偽は棚上げにしておいてもよい。問題は、中国の皇帝の一句が、一見そう思われるほど馬鹿馬鹿しいものでも愚かしいものでもなく、意外に「正常な反応ではないか」(傍線(ア))という点にある。現実の日常生活においては皇帝が出会う顔は正面向きのものばかりだとはきまっていなかったに相違ないが、しかしその皇帝は──われわれの多くがそうであるように──人間の顔というものは、眼がふたつあって中央に鼻があり、その下に口がついているものだということを知っており、横顔という表現は、その「知っていること」と対応しないから吃驚したのである。ということは、その皇帝にとっては、絵とは「眼に見えたもの」を再現するものではなく、「知っていること」を表現するものだったということである。(中略)。「頭で知っていること」を描きながら、それを「眼に見えるもの」と同一だと思い込んでいるところに、人間の知覚作用の面白い一面がある。
2️⃣(④~⑦段落)ロンドン大学のゴンブリッチ教授は、エジプト人たちが正面と側面像の奇妙に入りまじった不思議な人体を描いたのは、眼に見える姿を「様式化」したのではなく、最初からそのように「見えた」のだと述べているが、それはまさしくあの中国の皇帝の場合と同じことになる。(上半身は正面像で下半身は側面像であるエジプトの壁画の「型」について)。もっとも、そういう「あり得ない」ことも、時間の観念を導入すれば充分起り得る。ある瞬間に正面から見て、別の瞬間に側面から見て、両方の視覚像を適当に組み合わせれば、エジプト人たちの表現になるからである。20世紀のキュビストたちは、そのことを意識的に行った。(中略)。キュビスムの芸術家たちにとっては、複数の視点の導入はきわめて意識的な方法であり、現実の対象は一つの視点からはそのような姿には見えないということを彼らはよくわきまえていた。「それにもかかわらず──いやそれなればこそ──」(傍線(イ))ひとつの視点から見られた統一的な視覚像というものを破壊するために、彼らはあえて複数の視点というはなはだ手荒な方法を持ちこんだのである。ところが、横向きの顔に正面から見た眼を描いたエジプト人たちは、それが複数の視覚像の合成だとは思っていなかった。彼らにとって、人間とはそういうものであり、したがって実際そのように見えたのである。いささか逆説的に言えば、「エジプトのあの「様式化された」人体表現は、エジプト人たちにとっては、きわめて「写実的」な表現だった」(傍線(ウ))のである。
3️⃣(⑧~⑫段落)人間の眼は対象を決してありのままの姿で見ない。いや、もう少し正確に言えば、人間の眼と頭とは、あるがままの対象の姿を捉えないのである。人間の眼は、しばしば機械のカメラに比較される。人間の網膜は、フィルムが外界の姿を撮しとるように対象を捉えると考えられている。しかし、網膜の上に捉えられた像は、頭によって一度「修正」されて知覚像になるのである。したがって、「眼に見える世界」というのは、実は、眼と頭(知性)との協力によって生み出されたものと言ってよい。もともと、網膜にうつる像が(カメラのフィルムの場合と同じように)、上下左右逆になっているはずであることはよく知られている。しかしわれわれは、決して外界を逆に見ることはない。「眼に見える世界」が実は知性の働きによって修正されているからである。(心理学者ストラトンによる実験。上下左右が逆に見える眼鏡をかけての生活。当初はチグハグな体験ばかりで精神的に不安定となるが、三日もたつと逆さまの世界にも慣れて、一週間目には、全然生活に支障を感じないようになった)。ストラトンのこの実験は、人間とはつねに自己との関係において外界を見るということをよく示している。この事実は、われわれが原始人たちのかたちの意識と空間の意識を理解しようとする時、大きな助けを与えてくれるだろう。
4️⃣(⑬~⑮段落)複数の視点を合成させることは、エジプトの壁画にかぎらず、もっと古い時代から見られる。旧石器時代末期の洞窟壁画のなかには、横から描いた野牛の頭上に、角だけを正面から見たように二本逆アーチ型に描き出しているものがある。(中略)。ラスコーやアルタミラをはじめとした洞窟壁画は、二万年も前に描かれたものでありながら、そのなまなましい描写力でわれわれを驚かす。人はしばしば原始絵画の持つ「写実的特質」を語り、遠い昔の芸術家たちの現実再現力に賛美の声を惜しまない。しかし、いかに真にせまっていようと、これらの洞窟壁画は、決して現在われわれがそういうような意味で「写実的」なのではない。少なくとも、ラスコーの洞窟壁画は写実的でエジプトの壁画は様式化されているといったような単純な規定で割り切れないものがそこにはある。「ラスコーにおいても、ナイル河のほとりにおいても、そこで働いていた精神はおそらく同じものなのである」(傍線(エ))。

〈設問解説〉
問一 (漢字)
(1)真偽 (2)混在 (3)差異 (4)人為 (5)支障

問二 「正常な反応ではないか」(傍線の箇所(ア))とあるが、筆者はなぜそのように判断しているのか。本文の内容に即して、50字以内で説明せよ。

理由説明問題。まずは同②段落より、「横顔という表現は「知っていること」と対応しないから吃驚した/絵とは…「知っていること」を表現するものだった」という記述を参照する。これは「(絵画の)表現」という側面からの説明であるが、これと「(絵画を)見る」という側面からの説明である3️⃣パート(「人間の眼と頭とはあるがままの対象の姿を捉えない(⑧)」「「眼に見える世界」が実は知性の働きによって修正されている(⑩)」)を合わせて参照する。これより、「人は「知っていること」に対応させて対象を見る(R1)/よって皇帝の見方は「正常な反応」と言える(G)」と導くことができる。
ただ、R1だけでは「人の一般的な知覚メカニズム」を説明しただけで、「皇帝の個別的な見方」に十分に寄り添えてない。そこで②段落に戻り「その皇帝は──われわれの多くがそうであるように──人間の顔というものは、眼がふたつあって中央に鼻があり…を知っており」という記述を参照する。つまり、われわれ一般の「顔」に対する概念的な理解(とそれによる顔の見方)と、皇帝の理解(とそれによる顔の見方)は相通じており、その点でも「正常だ」と言えるのである。

<GV解答例>
人は既知の理解により対象を知覚するものである上、皇帝の見方はごく一般的な理解から導かれるものだから。(50)

<参考 S台解答例>
人は誰しも知性で知覚を修正するので、皇帝が人間の顔は正面向きのものだと考えていて驚くのも当然だから。(50)

<参考 K塾解答例>
人間は「知っていること」を「眼に見えるもの」と同一であると思いなす知覚作用をもつと考えているから。(49)

問三 傍線の箇所(イ)で、筆者は「それにもかかわらず」と述べた後に「いやそれなればこそ」と言いかえているが、そのような表現によってどのようなことを強調しようとしているのか。50字以内で説明せよ。

表現意図の説明問題。表現意図の問題は、その表現をとる形式面での理解を問うものだから、前後の内容説明をくどくど盛り込んでも点数にはならない。ここでは、「いやそれなればこそ」とした意図(A)について端的に答えるのはもちろん、その前に「それにもかかわらず」と一旦置いた意図(B)についても踏まえる必要がある。
つまり、エジプト人の様式化された絵画(人物像)は複数の視点が混在するが、それはエジプト人の「人に対する概念的な理解」に沿って見られ、描かれたものであり、「現実の対象はひとつの視点からはそのように見えない(傍線直前)」のである。すなわち、人間生理的な意味では不可能な複数の視点の導入を、「それにもかかわらず」キュビストは図るのである。それを「いやそれなればこそ」と言下に打ち消すのは、彼らがそれをわきまえた上で、「あえて複数の視点というはなはだ手荒な方法を持ちこんだ(傍線直後)」ということを強調するためである。まとめると、キュビスムの芸術家は、複数の視点という方法の導入が「人間の生理的な見方に反する」ということは知っていた「にもかかわらず」、導入した(導入の消極面(B))。しかし、そんなことはキュビストたちは重々承知のうえだ。「いやそれなればこそ」、それを「意図的に逸脱」しようとして複数の視点という方法を導入したのである(導入の積極面(A))。

<GV解答例>
キュビスムの手法は、人の生理的な見方に反するという前提を踏まえた上での意図的な逸脱であるということ。(50)

<参考 S台解答例>
キュビストたちが対象を一方向だけで捉える常識的な視覚像を破壊したいという意思を強く持っていたこと。(49)

<参考 K塾解答例>
キュビスムにおける複数の視点の導入が、当然とされる統一的な視覚像の破壊という明確な意識に基づくこと。(50)

問四 「エジプトのあの「様式化された」人体表現は、エジプト人たちにとっては、きわめて「写実的」な表現だった」(傍線の箇所(ウ))とはどのようなことか。本文の内容に即して、50字以内で説明せよ。

内容説明問題。傍線直前に「逆説的に言えば」とあるように、傍線自体が逆説(パラドックス)となっている。一般的に、パラドックスに対する問いは、対立する(ように見える)要素(X/Y)を対比軸を明確にして示し、本文に明示されている場合、ないしは論理的に導出可能な場合は、XとYという対立要素をつなぐ理由(R)を指摘する。その場合、構文としては「Xであるが、Rなので、かえって(逆に)Yである」となる。
本問では、対立要素は「様式化された(X)」と「写実的(Y)」である。Yについては特に言い換える必要はないだろうが、Xについてはエジプトの人体表現に即して、Yとの対比軸が明確になるよう言い換える必要があるだろう。「様式化」については、⑤段落より「ひとつの「型」にはまっている」を参照する。語義も踏まえて、前半部は「複数の視点が混在したエジプトの統一的な図柄(X)」とした。これがエジプト人には、個物に忠実な「写実」として認識される(Y)のである。なぜか? 直接的には、傍線前文の「人間とはそういうものであり、したがって実際にそのように見えたのである」が参考になる。問二で参照した3️⃣パートの知覚メカニズムも踏まえて、「思念が知覚を決める(R)」と導いた。まとめて、「Xは、Rである以上、かえって(逆に)Yである」とした。

<GV解答例>
複数の視点が混在したエジプトの統一的な図柄は、思念が知覚を決める以上、逆に忠実な写実だといえること。(50)

<参考 S台解答例>
正・側面が複合した人体像は、眼と知性によって生まれた「眼に見える世界」の像そのものだったということ。(50)

<参考 K塾解答例>
複数の視点の合成と見えるエジプトの人体表現が、実は彼らの眼に見えたままを絵にしたものだということ。(49)

問五 「ラスコーにおいても、ナイル河のほとりにおいても、そこで働いていた精神はおそらく同じものなのである」(傍線の箇所(エ))とあるが、どのような点で「同じ」であるのか。本文全体の趣旨を踏まえて、60字以内で説明せよ。

内容説明問題。ラスコーの洞窟壁画が、いかに真にせまっていようと、それは様式化されたエジプトの絵画と同じ精神が働いているとする。共通点の一つが、3️⃣パートの知覚メカニズム、⑧~⑩段落に述べられていることは問題ないだろう。「網膜が外界を撮しとる→知性が修正を加える→知覚が再構成される」という流れを繰りこみたい。
もう一つ、同じ3️⃣パートだが、ストラトンの実験(⑪)とそれを承けた⑫段落「人間とはつねに自己との関係において外界を見る/この事実は…原始人たちのかたちの意識と空間の意識を理解しようとする時、大きな助けを与えてくれる」を参照する。「関係において外界を見る」とはどういうことか。ストラトンの実験を踏まえると、人間は自らの都合のいいように(安定した関係を維持するために)外界を、修正して見るのである。これが二つ目。エジプトの絵画もラスコーの壁画も、そして現代人の日常も、そうした知覚メカニズムから逃れることはないのである。

<GV解答例>
始めに視覚に捉えられた像を知性により修正を加えて知覚を再構成することで、自己と外界との関係を安定的に保持しようとする点。(60)

<参考 S台解答例>
人は皆それぞれの文化の中で自己との関係において見た対象を知性で修正して知覚像として捉え、捉えたものを表現しようとする点。(60)

<参考 K塾解答例>
人間の知覚像は、あるがままのものではなく、知覚と知性の協力によって、また自己と外界の関係において形成されるという点。(58)

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