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2023大阪大学/国語(文学部)/第一問/解答解説

【2023大阪大学/国語(文学部)/第一問/解答解説】

〈本文理解〉
出典は宮野真生子『出逢いのあわい──九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』。前書きに「次の文章は、偶然性をめぐる九鬼周造の思想を、和辻哲郎の「間柄」論と対比しつつ解釈したものです。和辻によれば、人間は「(学生に対して)教師である」「(夫に対して)妻である」などといった他者との間柄を生きています。一方、九鬼は、一見安定している間柄の「である」の背後には、人間を一般化し、他の誰かと交換可能な存在にしかねない危うさが潜んでいるものの、それは、この私「がある」ことの唯一性を自覚する機会にもなりうるとしています。この文章は、その指摘からの帰結を論じたものです」とある。
①段落。日常において、「がある」という事実性、偶然性に直面することはほとんどない。変わらない日常のなかで「私の代わりなんていくらでもいる」と呟くことはあったとしても、ため息交じりの交換可能性に触れる呟きが、「それでも私はこんなふうにある。それは「有りー難い」(傍線部(ア))ことだ」などと、「この私がある」ことの唯一性にたどり着くことは滅多にないだろう。日常は、間柄の「である」の規定を定型的になぞることで淡々と続いていき、その安定のうえに多くの人は自らの居場所をつくる。…しかし、こうした日常を根底からくつがえすようなことが起こることがある。たとえばそれは、大きな災害や、人生を左右するような出会い、あるいは事故や病で生き方が変わるとき、いわば、予期していなかった偶然の出来事と遭遇するときである。予期していなかった偶然の出来事に見舞われるとき、人は二つのことに気づく。第一に、安定していると思っていた日常は、脆く崩れやすいものであること。第二に、日常を安定化させていた、それまでの間柄の「である」という規定は、偶然事を前にして、ほとんど役に立たないということ。…それは、間柄の「である」という規定によって築いてきた自らの生の意味づけが消えてなくなるということではなく、そうした意味づけが届かないところで、性のありようが変わってしまうという体験である。ここに生まれたことも、病になったことも、自分で選んだことではない。たまたま、そういうふうに生まれ落ちただけのこと、自分の手の届かない事柄である。偶然事との出会いにおいて、このように「である」の下に隠れていた、「がある」という偶然的な事実性が裸出する。そのとき、人は「自らの生が「無の深淵」に晒されていること」(傍線部(a))、安定した日常が「仮小屋」にすぎなかったことを悟る。
②段落。こうした体験は、病や災害などのネガティブな事柄との出会いでも、恋における運命的な出会いのようなポジティブな出会いでも、それが予想外の出来事である以上、共通して起こることである。…そして、この「がある」の裸出の背後には、「他でもあり得たのになぜ私」「会わない可能性もあったのに、なぜ今ここで」といった交換可能性が存在する。恋のはじまりの出会いであれば、この交換可能性と偶然性を逆手にとって「出会わないこともありえたのに会えたのは運命」というふうに、偶然性を必然性に転化することもできるだろう。そうした態度は、「がある」事実性を「有りー難さ」へと反転させて、唯一性を感受する態度につながるものである。だが、災害や病に遭遇することのなかに、「有りー難さ」を宿した唯一性を感受することなどできるだろうか。
③段落。まず、注意しておきたいのは、災害や病に見舞われることは、決して運命と呼ぶべきものではなく、あくまで偶然にすぎないということだ。…そのうえで、私が言いたいのは、偶然事に遭遇したことで、「がある」ことの事実性が「私がある」ことの「有りー難さ」を知る契機となって、そこに唯一性が宿ることはあり得るのではないか、ということだ。ただし、そうした経験は偶然において日常が不安定化し、「がある」の事実性に直面しただけでは手に入らない。そこから再び日常という他者ととも「にいる」場に戻ることが必要になる。
④段落。九鬼は、実存が生きる日常を、無に晒され壊れやすい「仮小屋」だと言った。だが一方で、人間が生きる場はこの「仮小屋」以外にない。…「がある」事実性が、足元にある交換可能性、「無の深淵」を垣間見せようとも、人は「仮小屋」の日常に戻って「である」間柄にのっとり行為する。…再び、その間柄の好意的連関が動きはじめるとき、人は日常のしぶとく残る頑丈さ、空洞化したと見えていた間柄がもつ揺るぎなさを感じるだろう。だが、そうした間柄と日常が揺るぎなくあるのは、そこを生きる人びとが、それぞれに「である」間柄を保ち、積み上げてきたからである。しかも、その「である」間柄を作るのは、それぞれに「がある」の交換可能性に晒された偶然的な存在である。…偶然事に直面し、「がある」の交換可能性に気づくことで日常が「仮小屋」であることを知った人は、再び日常に戻ったとき、この日常が成立していることのかけがえのなさ、唯一性に気づくことができる。だからこそ、日常に戻った人は、そのなかで真摯に自らの生き方を選ぶ(あるいは選び直す)ことができる。
(中略)
⑤段落。こうした「有りー難さ」は、当事者だけでなく、その周りの人にも波及する。ただし、その波及は必ずしも「有りー難さ」という形をとるわけではない。…偶然事(とくにネガティブな事柄)が起こり、その当事者は「がある」の裸出に戸惑い、不安になりながらも、必死で日常に戻るなかで、日常に宿る「有りー難さ」を感受することができるが、そのような当事者を前にして、非当事者はある種の「やましさ」のようなものをもつ。「だが、それもまた「がある」ことの事実的な偶然性を掴むことではないのか」(傍線部(b))。
⑥段落。目の前にいる他者がなぜ病に冒されることになり、自分は健康な者であるのか、それは偶然的なものである。一つの間柄を共有しつつ、両者の立ち位置は偶然的な「がある」によって決まったにすぎない。その意味で、和辻が考えたのとは異なり、「である」間柄もまた人間が「有つ」ことのできるものではなく、「である」間柄それ自体が、「がある」の事実的な偶然性に貫かれたものである。…偶然事に苦しむ人は時に「なぜ、私だけが」と言うかもしれない。しかし、その問いに回答を与えることはできない。一つの間柄を共有しつつ、互いが事実的な偶然性で隔てられていることを知るとき、非当事者は、無力感を募らせ、苦しむ人を前にして何をなすべきか戸惑うばかりである。「だが、それこそが、他者への理解を安易に表明することなく、真摯に他者と向き合うということではないのか」(傍線部(c))。「である」間柄のなかで「がある」ごとの事実的偶然性に気づき、逃げ場なしの状態で他者と関わること。それこそが、九鬼の言う「偶然性を固く掴む」ことから始める倫理の具体的な形ではないだろうか。


〈設問解説〉
問一「自らの生が「無の深淵」に晒されていること」(傍線部(a))について、どういうことか、説明しなさい。(四行)

内容説明問題。傍線部は①段落末文にあり「そのとき」に導かれる。「そのとき」というのは「偶然事との出会いにおいて/「である」の下に隠れていた/「がある」という偶然的な事実性が裸出(=露出)する」とき(A)、である。このAは、①段落または前文の説明を通して、「日常」のあり方と対比されている。それによると、「日常」においては「〜である」という「一見安定している間柄(B)」を生きているが、その背後には「他の誰かと交換可能な存在にしかねない危うさ(C)」が潜んでいて、「予期していない偶然の出来事と遭遇する」とき(A)、そのCが浮上し「安定していると思っていた日常」も「脆くも崩れやすいものである(D)」と気づくのである。傍線部直後の「安定した日常が「仮小屋」にすぎなかったこと(E)」というのも、傍線部と同内容を述べていると見なし、解答に反映させたい。
以上を踏まえて、解答は「日常は一見安定した他者との関係性の中に自分であることを規定しているようで(B)/実は、その自分は他の誰かと交換可能でありながら(C)/偶然その関係性の中にあるにすぎず(AE)/その日常も脆く崩れやすいものであるということ(D)」となる。もちろん「交換可能性」への気づきは「がある」ことの「唯一性を自覚する機会にもなりうる」ものであるが、これについては傍線部「無の深淵」のニュアンスから外れるので、次問以降で答える要素とする。

〈GV解答例〉
日常は一見安定した他者との関係性の中に自分であることを規定しているようで、実は、その自分は他の誰かと交換可能でありながら偶然その関係性の中にあるにすぎず、その日常も脆く崩れやすいものであるということ。(100)

〈大阪大学 解答例〉
日常を安定化させていた間柄の「である」という規定は、実際には脆く崩れやすい偶然的なものに過ぎず、自分は他の誰かと交換可能で、存在しないこともありえたということ。(80)

〈参考 S台解答例〉
予期せぬ偶然の出来事と遭遇した際、安定しているかに思われた、他者との間柄に規定される日常は、脆く崩れ、間柄によって築いてきた自らの生の意味づけが届かないところで、生のありようが変わって、自己の人生の偶然的な事実性が露呈してしまうということ。(120)

〈参考 K塾解答例〉
人は他者との関係のうちに形成される役割を自らの存在価値とすることで安息しているが、そうした日常の生は偶然の事態の発生によって容易に奪われ崩れ去り、自らの存在の無意味さを突き付けられてしまうものだということ。(103)

〈参考 Yゼミ解答例〉
人は、日常的には社会的役割や他者との関係の中で安定した生活を築いている。しかし、日常を根底から覆すような偶然事に遭遇したとき、日常の関係性が全く意味だということ、さらに自己が交換可能な存在であることをまざまざと思い知らされるということ。(118)

〈参考 T進解答例〉
日常は間柄の「である」の定型的な規定の上に築かれているが、災害や事故などの予期せぬ偶然の出来事に遭遇すると、日常は崩れ去り、「である」という規定は役に立たず、「である」の下に隠れていた、「がある」の偶然的な事実性が露出することで、間柄に基づく生の意味づけが届かない所で生のありようが変わってしまうこと。(151)


問二「有りー難い」(傍線部(ア))という語は、一般的な感謝の表現としての「有り難い」とどう異なるのか、本文の趣旨をふまえて説明しなさい。(四行)

内容説明問題。「有り難い」については本文に説明はないので、一般的な意味の範囲内で「感謝の表現」という設問上の定義を敷衍させ、「二者関係において/一方の行為の稀さに対する/他方の感謝を表す語」としておく。それに対して本文の「有りー難い」というのは、その人個人における実存を表す語である。具体的には、傍線部を含む「ため息交じりの交換可能性に触れる呟きが/「それでも私はそんなふうにある。それは有りー難いことだ」などと/「この私がある」ことの唯一性にたどり着く」(①)という記述、または「「がある」事実性を「有りー難さ」へと反転させて/唯一性を感受する態度につながる」(②)という記述を参照するとよい。要するに、私は交換可能な他でも有りえた存在として「有る」わけだが、その中でやはり「この私」であるということは、私の「唯一性」を自ずと示す、という理屈である。
以上の理解を踏まえて、解答は「「有り難い」は二者関係において一方の好意の稀さに対する他方の感謝を表す語だが//「有りー難い」は自己の存在が他でも有りえたという自覚を必然性に反転させ/しかし他ではない私が有るとする意味を表す語である」となる。

〈GV解答例〉
「有り難い」は二者関係において一方の好意の稀さに対する他方の感謝を表す語だが、「有りー難い」は自己の存在が他でも有りえたという自覚を必然性に反転させ、しかし他ではない私が有るとする意味を表す語である。(100)

〈大阪大学 解答例〉
「有りー難い」は、自らの存在の偶然性を悟ったうえで他者とともに生きる日常へと戻ることで初めて感じられる、「である」間柄のかけがえのなさ、唯一性を言い表している点で、一般的な感謝の表現とは異なる。(97)

〈参考 S台解答例〉
偶然事に直面し、自己の交換可能性に気づくことで日常の仮構性を知った人間が、再び日常に戻ったときに気づくことができる、偶然的な存在である人が他者との間柄を築き、日常という安定が成立していることのかけがえのなさや唯一性という意味で、一般的な感謝の表現とは異なる。(129)

〈参考 K塾解答例〉
一般には、安定した日常の中で偶然よきことに恵まれた喜びを表すが、本文では、偶然の事態が自己の存在価値の乏しさを顕わにしても、そんな人間たちが築く関係に立ち戻ることで得られる唯一無二のありようを示している。(102)

〈参考 Yゼミ解答例〉
「有りー難い」は、偶然事に遭遇して自分もまた偶然の交換可能な存在でしかないと気づいた人が、再び日常に戻ったときに、そのかけがえのなさや他者との関係の中で築いてきた自己の唯一性を知ることであるという点で、感謝の意を述べる「有り難い」とは異なる。(121)

〈参考 T進解答例〉
「有り難い」は、他者から主体に向けて示された行為、あるいは配慮に対する、客体への感謝、つまりプラスの意味を表明するのに対して、「有りー難い」は、たとえば「私」の交換可能性に触れながらも、「この私がある」ことの唯一性にたどり着くというような、主体、客体を問わない、事実の希少性への中性的な言及を意味する。(151)


問三「だが、それもまた「がある」ことの事実的な偶然性を掴むことではないのか」(傍線部(b))について、このように言えるのはなぜか、説明しなさい。(四行)

理由説明問題。「それもまた」の「それ」とは「偶然事(とくにネガティブな事柄)」に見舞われた「当事者を前にして/非当事者はある種の「やましさ」のようなものをもつ」こと(Y)、である。このYも、「当事者」が「がある」ことの偶然性を掴むこと(X)、と同様だと言うのが傍線部の内容である。もちろんXとYとでは、その現れ方は違うが、その本質において一致していることを解答で示すとよい。解答の形式は「Xである当事者と同様//当事者を前に「やましさ」を感じる非当事者もYであるから」となる。まずはXを傍線部の前の箇所から抽出し、それに重ねる形でYを傍線部の後の箇所から抽出すればよい。
Xについては、傍線部前文「偶然事(とくにネガティブな事柄)が起こり/その当事者は「がある」の裸出に戸惑い/不安になりながらも/必死で日常に宿る「有りー難さ」を感受する」を参照し、その中で「有りー難さ」の部分を問二の理解に基づき「唯一性」と言い換えるとよい。Yについては、⑥段落より「(当事者と非当事者は)一つの間柄を共有しつつ/両者の立ち位置は偶然的な「がある」によって決まったにすぎない//「である」間柄それ自体が/「がある」の事実的な偶然性に貫かれたものである//一つの間柄を共有しつつ/互いが事実的な偶然性で隔てられている」の箇所を参照する。その中で、「「がある」の事実的な偶然性に貫かれた」というのなら、やはりXと同様、そこから「唯一性」が導かれうるのであって、その点でXとYは「本質において」等価なのである。
以上を踏まえて、解答は「偶然事の露出により/不安になりながら日常に戻り/私があることの唯一性を感受する当事者と同様//当事者を前に戸惑う非当事者も/両者の関係性を規定する厳然たる偶然性の自覚を介して/日常に宿る唯一性に達しうるから」となる。

〈GV解答例〉
偶然事の露出により不安になりながら日常に戻り私があることの唯一性を感受する当事者と同様、当事者を前に戸惑う非当事者も、両者の関係性を規定する厳然たる偶然性の自覚を介して日常に宿る唯一性に達しうるから。(100)

〈大阪大学 解答例〉
非当事者がもつ「やましさ」は、苦しんでいるのが自分ではなく目の前の他者であることの偶然性を悟ったうえで、再び二人の「である」間柄へと戻ることで初めて感じられる、自分の立ち位置が不当なものではないかという感情であり、その点で「有りー難さ」と重なるものだから。(128)

〈参考 S台解答例〉
偶然事の当事者が、自己の交換可能性、偶然性を悟るのと同様、そのような当事者を前にして、非当事者がもつやましさは、一つの間柄を共有している両者の間にある、彼我の落差に気づき、自分の立ち位置が偶然に決まった不当なものではないのかと感じることによって生じるから。(128)

〈参考 K塾解答例〉
人も人の関わりも、本来必然的な確かさをもたないため、互いに関わり合う者たちの誰が否定的な事態に見舞われるかはあくまで偶然である以上、それに遭遇しなかった者が自らを咎めるような思いを抱くことは避けられないから。(104)

〈参考 Yゼミ解答例〉
災難に遭遇した当事者に対し、災難を免れて安定した日常を享受できる人々は、偶然に非当事者であったということに一種の後ろめたさを感じるしかない。しかし、そう感じる自分もまた、他者とは交換不可能な唯一の存在だという事実にも気づくことができるということ。(123)

〈参考 T進解答例〉
特にネガティブな偶然事に遭遇し、「がある」の交換可能性に曝されながら、日常の「有りー難さ」に戻ろうとする人と同じなのだが、そうした病や災害に会っていない非当事者は、当事者に対しある種の「やましさ」を感じるが、それは当事者との立場の落差に、「がある」ことの偶然性の刻印を眼前に確認することでもあるから。(150)


問四「だが、それこそが、他者への理解を安易に表明することなく、真摯に他者と向き合うということではないのか」(傍線部(c))について、なぜ安易に他者への理解を表明するべきでないのか、本文の趣旨をふまえて説明しなさい。(四行)

理由説明問題。傍線部の主語「それ」の指す内容は、苦難に見舞われた当事者に対して、非当事者が間柄の偶然性により隔てられていることを知り、何をなすべきか戸惑うこと、である。ただ注意すべきは、本問では傍線部から内容を限り、「なぜ安易に他者への理解を表明すべきでないのか」という理由を問うていることである。その理由については、傍線部前後、さらに⑥段落を見渡してもその根拠となるものが見当たらない。
そこで傍線部の「安易に表明することなく」に続く「真摯に他者と向き合う」という表現に着目すると、これと対応する表現を④段落の末文に見つけることができる。すなわち「日常に戻った人は、そのなかで真摯に自らの生き方を選ぶ」という箇所だ。ここは「当事者」の構えについての記述で、「非当事者」の構えについて述べた傍線部と関係ないようだが、問三で考察したように「当事者」の構えは「非当事者」にも本質において通じるものであった。ならば、先の文が「だからこそ」で始まるのに着目すると、本問の理由の根拠も「だからこそ」の前に書かれているということになろう。そこで、④段落「だからこそ」を遡り、「そうした間柄と日常が揺るぎなくあるのは、そこを生きる人びとが、それぞれに「である」間柄を保ち、積み上げてきたからである(A)/その「である」間柄を作るのは、それぞれに「がある」の交換可能性に晒された偶然的な存在である(B)/「がある」の交換可能性に気づくことで日常が「仮小屋」であることを知った人は…この日常が成立していることのかけがえのなさ、唯一性に気づくことができる(C)」を抽出する。ここから解答の前半を「他者との関係性は(A)/偶然的でそれゆえ唯一的な存在である人々が(B)/積み上げてきた(A)/不安定でかけがえのないものである(C)」とし、これを根本理由とする。
ただ、上の理由から終点「安易に他者への理解を表明すべきでない」に着地するには、ややハードなものになるので、傍線部とその次文から「安易に表明することなく(D)/真摯に他者と向き合う(E)/「がある」ことの偶然性に気づき(F)/逃げ場なしの状況で他者と関わる(G)」を抽出し、解答の後半部、つまり直接理由を次のように構成する。「他者への接近は/互いの偶然性を前提とした(F)/持続的で(D)/全人的な努力を必要とする(EG)」(→よって、安易に他者への理解を表明すべきでない)。これを先の根本理由と接続し、「〈根本理由〉ので、〈直接理由〉から」の二段重ねの形にし、最終解答とする。

〈GV解答例〉
他者との関係性は所与ではなく、偶然的でそれゆえ唯一的な存在である人々が積み上げてきた、不安定でかけがえのないものである以上、他者への接近は互いの偶然性を前提とした持続的で全人的な努力を必要とするから。(100)

〈大阪大学 解答例〉
両者の立ち位置の違いは事実的偶然性によるもので、非当事者の「やましさ」は当事者の感じる「有りー難さ」と表裏一体である以上、安易に理解を表明して「やましさ」から逃れようとすることは、自分だけでなく当事者の唯一性をも軽視することであり、「である」間柄を共有する自他の存在と真摯に向き合わない態度だから。(150)

〈参考 S台解答例〉
安易に他者への理解を表明することは、非当事者が偶然事に苦しむ当事者と一つの間柄を共有しつつ、互いが事実的偶然性で隔てられていることを知り、無力感と解消不可能なやましさをもち、戸惑うばかりでありながらも、自己存在の事実的偶然性に気づき、逃げ場なしの状態で他者と関わるという、倫理の具体的な形を放棄することになるから。(157)

〈参考 K塾解答例〉
互いの関係について合理的な説明ができない関係でありながら、相手に生じた悲劇的な事態を受け止めきれず途方に暮れるにしても、その過酷さに耐えて相手と関わり合うことが、人にとって本来的なあり方であるから。(99)

〈参考 Yゼミ解答例〉
災難の中で苦しむ他者と、非当事者である自己のの間には超えられない落差があるのに、安易な同情や理解を伝えるのは無責任で表面的な対応にすぎず、むしろその落差に戸惑いや無力感を抱えながらも、かけがえのない存在として他者と向き合うことこそが、あるべき人間どうしの関わり方であるから。(137)

〈参考 T進解答例〉
目の前の他者が病に冒されているのに、自分が健康なのは偶然である。しかも両者は一つの間柄を共有する。「である」間柄を、「がある」の事実的な偶然性が貫いている。この彼我の落差に気づく時、非当事者は無力感と「やましさ」を感じるが、逃げ場なしの状態で他者と関わる所に、共感ではなく、倫理の発現をみるべきだから。(151)

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