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生きてていい私

実はここ1年くらい、私ってこの先長く生きてる意味あんのか?て時々思ってたんだよね。
生きててもいいんだけど、生きてなくてもいいよなーみたいな感じで。
(別に絶望してるとか死にたいとかではないので誤解なきように。)

まず、私は自分が生まれた意味など基本的にないと思って生きてきたんだよね。

なので「自分が生まれた意味とは」「自分の使命とは」みたいな事を定義し探す方には理解されないかもしれん。
でも、私は個人が生まれて人生を歩むことには特別な意味は感じていない。
ただ生まれて、ただ死んでゆく。
その部分で言うと植物もアリもタヌキもイルカも人間も、全部同じだと思ってて。

ただ「人間」と言う集団がこの世界に存在することにはこの世界に大きな意味があると思っているんだよな。
意味不明な場合は申し訳ない。

とは言え、毎日無気力に生きてるわけではない。
私は私の意思があり、この命を良きものに使いたいし楽しく優しく愛を持って幸福に生きたいと思っている。
多くの人と同じく。

で、そのために人は「明確な役割」「明確な仕事」がある方が生きやすいのだと思う。
「誰かのためになっている」と言う事実は紛れもなく自分の生きる力になる。
それが大切な人ならなおのこと。

私ももちろんそうだ。

さて、私はここ数年で「誰かのパートナー」や「子育てママン」と言う役割を持たなくなった。
「明確な役割」のわりと大きいものが無くなった。
子供達が大人になって「子育て」と言うものが無くなった上に「旦那さん」もいないもんで、とにかく気楽すぎたw
そうするとその自分を俯瞰的に見て
「もう子供産むわけでもないし、ある程度やりたいことやって楽しかったし、子育てやパートナー持ちの責任もないし、何かもう歳取るだけなら若い人の邪魔だし、生きなくても良くね?」
みたいな感覚が出てきてたんだよね。

ちなみにこれは「子育て終わって寂しい」て意味でもない。
子供達が育って(しかも2人ともいい子で中々優秀で)別の楽しさがあるし、シングルで育て上げた自分を誇らしく思ってる。
なので役割がなくなり、自己肯定感が無いとかそう言うしょーもない事は1ミクロンも思ってない。
ただ思うのは、子育て中で「母親」でいる事って自分が思うよりも生き甲斐があったんだと再認識したってこと。
さらに言えば特定のパートナーがいない私は「この先死ぬまでこの人と共に生きていく」と言うような感覚もない。
(恋愛はするし大切な人はいるけど)

なので最近は私が死のうが生きようが、ほとんどの人にはさほど影響もないだろう、みたいな感覚だったんだよね。
本当これ正直な気持ち。

で、だ。
先日大切な方から紹介されたアガスティアの葉を体験した。
この事を宣伝したいわけじゃないので詳しくは書かないけれど、
ざっくり言うとインドのお坊様に自分の予言書を探してこれからの人生を教えてもらうものだった。

占いなんかもそうなんだが、あくまで指南の一つとして捉えている。

なのだが、今回はどシンプルな事に気づかせてもらったように感じる。
忘れがちだけど、実は世界っていつもシンプルなんだよね。

「別にそんなに生きなくてもいいかな」
から、あっさり心境の変化w

「私、まだ使い道ありすぎるわw」
「めちゃ人の役に立てるわw」
「生きてていいんだわw」
「むしろ生きなきゃいけないんだわw」
みたいになったわけ。←はい単純w

「母親」「妻」「若者」のような役割は無くなっても、新たにちゃあんと準備されていた。
そこに責任も感じて、生きる気力湧いてきたなーて感じ。
なので、ひとまず魂は若返ることにしたよ。
アガスティアの葉に関してはちょっとこれからの変化を含めてまた改めて書いてみようとは思う。
そんなにお安くはないが、結論としては受けて良かったしその価値は十分にあると思った。
お金に関しても一つ気づきがあったので、それも含めてなんかまとめたいな。

そんなわけで、私はまだ生きていていいので、みんなと現世で一緒に遊びたいんだぜ。


やっぱ愛でしか心は動かないものなんだな。

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