ウーゴ・デ・レオン(ウルグアイ) クラッキ列伝 第176回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年7月号
南米のクラブシーンにおいて最も価値が高いコパ・リベルタドーレス。過去64回、様々なキャプテンが誇らしげにトロフィーを掲げてきたが、額に血を流したまま栄光の瞬間を迎えたのは、後にも先にもグレミオの闘将だけである。
ウルグアイ生まれの名CBウーゴ・デ・レオンその人である。
1958年、ウルグアイのリベラ県リベラ市に生まれたデ・レオンにとって、幼き頃のアイドルは1950年のW杯ブラジル大会で、ブラジルを破って優勝したウルグアイ代表の面々だった。
ブラジル人にとっては「マラカナンの悲劇」だが、ウルグアイ国民にとっては「マラカナンの栄光」。幼きデ・レオンは、まだ自身の運命を知る由もない。やがてブラジルの名門クラブで英雄の一人として崇められる存在になることを……。
美しいサッカーよりも泥臭く、そして戦う姿勢を重視するのがリオ・グランデ・ド・スウ州などブラジル南部のサッカーのスタイルだが、名門グレミオもその一つ。グレミオが2012年に柿落とししたアレーナ・ド・グレミオの通路の壁には「練習は試合だ。試合は戦争だ」なるグレミオのサポーターが大事にしてきた精神を象徴する言葉が刻まれている。
母国の名門ナシオナルでキャリアをスタートさせたデ・レオンだが、17歳でキャプテンを任されたこともあるように、生まれながらのリーダーだった。
ただ、ウルグアイのCBにありがちな無骨な武闘派では決して、ない。「自分のプレースタイルは、育った街がブラジルとの国境に位置していることに影響されている」とかつてデ・レオンは明かしたことがある。
リベラ市はブラジル国境沿いに位置するが、189センチの長身を感じさせない技術の高さも一級品。CBだけでなく左右のSBもこなす起用さも併せ持っていたが、不屈の闘志を意味するスペイン語「ガーラ・チャルーア」とエレガントさを共存させた数少ないクラッキだったのだ。
1981年、ナシオナルからグレミオに移籍したデ・レオンであるが、当初からグレミスタ(グレミオサポーター)には歓迎されて当然の男だった。前年のコパ・リベルタドーレスでは天才パウロ・ロベルト・ファルカンを擁したインテルナシオナウを決勝で下し、決勝の2試合とも無失点に。
グレミオの宿敵を決勝で葬り去った男は移籍一年目でブラジル全国選手権優勝に貢献すると、1983年にはグレミオの初の南米制覇に貢献する。攻撃はレナト・ガウショが引っ張ったが、デ・レオンが最終ラインに控えていたからこその栄冠だった。
そして1983年のトヨタカップでは、東京の国立競技場でハンブルガーを2対1で下して、世界一に。
グレミオの歴史において南米王者、世界王者としてトロフィーを掲げたのはデ・レオンのみである。
1984年にグレミオを退団し、その後はコリンチャンスなどでもプレーしたウルグアイ生まれの闘将は、1988年にナシオナルで自身3度目となるコパ・リベルタドーレス優勝を飾り、やはり年末のトヨタカップでも2度目の世界一を味わっている。
32歳で迎えた1990年のW杯イタリア大会でメンバー入りしたものの、決勝トーナメント1回戦でイタリアの前に敗退。ウルグアイ代表としては世界一に届かなかったがウルグアイ人としては歴代最多となる3度の南米制覇に輝いたのは、十分すぎる栄誉と言えるだろう。
引退後、指導者や政界にも関わったデ・レオンは今、ポルトアレグレとモンテビデオを行き来しながら、ビーチテニスに興じる日々である。
もちろん、今でもアレーナ・ド・グレミオにも足を運ぶという。
今のサッカーのルールでは出血した選手は止血が確認された時のみプレーが許されるため、第二のデ・レオンは現れないのである。
「血染めのカピタン(キャプテン)」は、もはや伝説としてコパ・リベルタドーレスの歴史で語り継がれることになる。
月刊ピンドラーマ2024年7月号表紙
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