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ペレ追悼 クラッキ列伝 番外編 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2023年2月号

史上最高のサッカー選手が、天に召された。

人は彼をエジソン・アランテス・ド・ナシメントたる本名で呼ぶことは数少ない。

ペレが2022年12月29日、がんとの闘病の末、この世を去った。

その前の前には「史上最高のサッカー選手」という肩書きがしばしば付けられるように、文字通り不世出の天才がペレだった。
「クラッキ列伝」の記念すべき第一回目を飾ったのはこの偉人であるが、ペレという風変わりな呼び名はブラジルのサッカー界ならではのニックネームである。

よく知られているエピソードだが、ペレは幼少時を過ごしたサンパウロ州のバウルーで、草サッカーに興じた時、GKも好んで務めたという。ビレというGKに憧れていた幼きエジソンは、家族からヂッコの愛称で呼ばれていたが、ヂッコがビレの名を叫んで喜ぶ姿をサッカー仲間が「ペレ」と勘違い。

後にイギリスのサンデータイムズ紙は「Peléをどう綴るかって?それはGod(神)さ」と記したが、ペレというポルトガル語に存在しない言葉は、世界の共通言語になるのだ。

エジソンの名はかの発明王エジソンにちなんで、やはりサッカー選手だった父、ドンジーニョが与えたものだったが、ペレもまた、紛れもない「発明王」だった。

もっとも、ブラジルが誇る王様は、科学道具など必要としない。一球のサッカーボールさえあれば、様々な技を編み出せるのである。

サントスの後輩にあたるネイマールは、ペレの死を受けこう言った。
「ペレはサッカーを芸術に変えた」。

ブラジル人がこよなく愛するフッテボウ・アルテ(芸術サッカー)の体現者がペレだった。

キャリア通算で1281得点を決め、ブラジル代表では歴代最多タイ(ネイマールと並ぶ)の77得点、ワールドカップでは個人最多となる3度の優勝……。数々の栄光に満ちた記録を残すペレだが、王様の前でそんな数字は大きな意味を持たない。

ブラジル最高の詩人、カルロス・ドゥルモン・デ・アンドラーデは言った。
「ペレのように1000ゴールを決めることが難しいのではない。ペレのような得点を一つでも決めることが難しいのだ」。

天才は天才を知る、である。

ブラジルにとっての国家的悲劇として知られる1950年のワールドカップブラジル大会の最終戦は「マラカナンの悲劇」という結末を見たが、ラジオの前で涙に暮れる父に「泣かないで父さん。僕がブラジルを優勝させるから」と誓った9歳の少年は8年後、17歳でブラジルの初優勝に貢献。伝説に満ちたその人生は82年で終わりを見た。

エジソン・アランテス・ド・ナシメントは天に召されたが、王様ペレは永遠の存在であり続ける。

筆者は2012年、来日したペレと日本のキング、三浦知良対談をポルトガル語でコーディネートする光栄な仕事を託されたことがある。

テレビカメラが回るため、ドーランを顔に塗る必要があったのだが、ペレは拒絶した。

王様がニコリと笑って、こう言った。
「スターは自ら光を放つものなんだよ」。

ありがとう、ペレ。そして偉大なる王よ、永遠なれーー。

 

下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2023年2月号
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