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ヴィラドネガ クラッキ列伝 第175回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年6月号

ヴィラドネガ

ブラジルでサッカー選手を目指す者の大半は、スポットライトが当たるFWや攻撃的な中盤の選手を目指すものである。

しかし、ヴァスコ・ダ・ガマ(以下ヴァスコ)やアトレチコ・ミネイロで活躍したヴィラドネガは、点取り屋でありながら、幼少時はディフェンダーになることを夢見た変わり種だった。

似た名前を持つことから、のちに親戚関係にあると周囲に勘違いされることになるウルグアイ人の名FW、ビジャドニガー(彼はヴァスコ史上最もゴールを奪った外国人FWである)がヴァスコから退団した1942年、ヴィラドネガがバイーア州のエウクリデス・ダ・クーニャ市で生を受ける。

幼い頃からヴァスコサポーターだったというヴィラドネガはラジオから流れる愛するクラブの試合の実況中継を聞いては、サッカー選手への夢を膨らませ、草サッカーに興じる日々を過ごしていた。

地元の名門、バイーアの下部組織から誘いを受けたにも関わらず、父エスペジットはサッカー選手という職業に懐疑的だったため、練習に参加させることを許さなかったという。

もっとも、エスペジットはイピランガの熱狂的なサポーターだったため、バイーアでのプレーを好まなかったという説もある。

そんなヴィラドネガの人生を変えたのがヴァスコのソシオ(会員)だった一人の医師で病院長も務めていたセバスチアン・アゼヴェドだった。

橋の下でプレーする12歳の少年の才能を見抜いたアゼヴェドは勉強も継続させると両親を説得し、ヴァスコの下部組織入りに尽力したのである。

当時中盤でプレーしていたヴィラドネガだったが、ヴァスコの下部組織の入団テストでは198人が受けてわずかに3人だけが合格するという狭き門を突破。トップチームへの道を歩んでいく。

1960年、当時のアルゼンチン人指揮官によってチャンスを与えられたヴィラドネガは左サイドバックや攻撃的MF、そしてFWでも起用され、マルチな才能を見せつけていく。

ヴァスコでタイトルを手にすることがなかったヴィラドネガが次にプレーしたのはアトレチコ・ミネイロ。1963年の移籍初年度にはミナス・ジェライス州選手権の優勝に貢献し、得点王にも輝いている。

そんなヴィラドネガのサッカー人生が暗転したのは1965年10月24日のことだった。ちょうど1か月前に柿落としされたミネイロンスタジアムで行われた最初のクルゼイロとのクラシコは判定を巡って試合後、ピッチ内で乱闘に。

警官を殴ったとの疑いで1年間の出場停止処分を受けたのだ。

出場停止の期間中も給与は受け続けていたヴィラドネガだったが自ら望んでアトレチコ・ミネイロを退団。そして最後に所属した小さなクラブ、URTでは試合後に乗っていたチームバスが横転。シーズン終盤に解雇され、ヴィラドネガはサッカーの世界から身を引くのだ。

現役時代は芸術的なプレーでもサポーターを魅了したヴィラドネガだったが、当時から絵を描くことを趣味にし、その上手さで知られていたが第二の人生をデッサンや絵画、看板などを作る芸術家として歩むのだ。

現役時代に稼いだわずかの貯金は、4度の結婚を経験した父に家を買うために使い果たしたヴィラドネガ。「その後、芸術家として稼いでお金で自分が住む小屋を買ったんだ」。

2022年8月、この世を去ったヴィラドネガだが、数々のゴールの記憶だけでなく、美しい絵画は今も生まれ故郷のバイーア州の小さな町、イタペチンガ市の一角に残っている。

ヴィラドネガのサインとともに。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2024年6月号表紙

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