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ペドロ・ロチャ(ウルグアイ) クラッキ列伝 第177回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年8月号

ペドロ・ロチャ

 94年の歴史を誇るサンパウロFCにおいて過去、栄光のユニフォームをまとったウルグアイ人は17人。ダリオ・ペレイラやディエゴ・ルガーノらウルグアイ代表でも活躍した世界的名手も数多いが、この男の実績と存在感は他を寄せ付けない。

ペドロ・ロチャである。

1942年、ウルグアイではモンテビデオに次ぐ都市であるサルトに生を受けたロチャは母国の名門、ペニャロールでクラブレベルでは考えうる全ての栄冠を手にしていた。

攻撃的ミッドフィルダーとしてチームの中心に君臨。ウルグアイの国内リーグで8回の優勝を果たし、コパ・リベルタドーレスでも3回優勝。2度にわたって、クラブ世界一にも輝いている。

ウルグアイ代表としては1962年のチリ大会から4大会連続でW杯にも出場しているが、これはウルグアイ人としては唯一の記録である。

ロチャ自身は負傷のため出場していなかったが、1970年のW杯メキシコ大会の準決勝でブラジルに敗れた後、ロチャは新天地にサンパウロFCを選ぶ。

その直前にはディエゴ・フォルランの父として知られるパブロ・フォルランがサンパウロFCで最初のウルグアイ人選手として加入していたが、ロチャは2番目のウルグアイ人としてサンパウロ州の「トリコロール」に加わったというわけだ。

鋭い眼光とピッチを離れれば決して口数は多いとは言えなかったロチャだったが、ピッチの中では雄弁にプレーで語り続けた。

正確かつ決定的なパスを繰り出すだけでなく、得点力もあったロチャはペニャロール時代から死刑執行人を意味するスペイン語「エル・ベルドゥゴ」の愛称で知られていたが、移籍当初は当時中盤に君臨していたジェルソンがいたこともあり、本来のポジションでプレーできず適応に苦しんだこともあったが、ペレが「世界で5本の指に入る選手」と評した実力は本物だった。

相手チームにとっては容赦なき「死刑執行人」は、ブラジル全国選手権の歴史にもその名を確かに刻み込んでいる。近年、南米各国のスターがプレーし、ブラジル人以上に存在感を見せることは珍しくないが、1972年のブラジル全国選手権では天才アタッカー、ダリオと並んで17ゴールをゲット。外国人選手として唯一、全国選手権の得点王に輝いているのだ。

そんなロチャだが、自身の技術の高さは若き日々にペニャロールと対戦したパウメイラスの2人の選手に影響されたものだったと明かしている。

1977年に全国選手権優勝を手にしたロチャだが、1977年に就任したルーベンス・ミネッリ監督の構想から徐々に外れ、1978年にコリチーバに移籍。その後は様々なクラブを転々とし、1980年にサウジアラビアのアル・ナスルでのプレーを最後にスパイクを脱いだ。

「ウルグアイ代表での世界一だけが私のキャリアで欠けていた」と話したロチャだが、クラブと代表を通じて計620試合に出場し、213ゴールを決めている。

現役引退後は主にブラジルの中堅クラブを指揮したロチャだが、あまりにもブラジルでのキャリアが長いが故に、1997年にJリーグの京都パープルサンガ(現京都サンガ)の監督に就任した際には、ポルトガル語読みの「ペドロ・ローシャ」の登録名になっていたほどである。

2013年12月2日にこの世を去ったロチャだが、その功績と伝説はウルグアイ人とサンパウロFCのサポーターの間で永遠に語り継がれていく。

偉大なる「死刑執行人」よ、永遠なれーー。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2024年8月号表紙

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