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チアゴ・ネヴェス クラッキ列伝 第172回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年3月号

古くはヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)に在籍し、ブラジル代表で活躍したアモローゾ。近年であればアルビレックス新潟でプレー後、パウメイラスで南米制覇を果たし、ブラジル代表のユニフォームを着たロニ。Jリーグでプレーした当時、決してビッグネームでなかった選手たちが、ブラジルに帰国後ブレークする例がある。

ベガルタ仙台でプレーしたチアゴ・ネヴェスもその一人である。

「その時が来たと認めないといけない。スパイクを脱ぐ時だ」

2023年10月、チアゴは38歳にしてプロサッカー選手としてのキャリアに別れを告げた。

1985年、チアゴはパラナ州のクリチーバに生まれた。街にはアトレチコ・パラナエンセとコリチーバの二大クラブが覇を競い合うが、チアゴはパラナ・クルーベの下部組織で育ち、トップデビュー。かつてブラジル全国選手権4部の常連(ファクトチェック要)で、強豪ではなかったものの中堅としての地位を確立していたパラナだがブラジル全国選手権4部さえ戦うことができず、パラナ州選手権では2部降格。ありし日の姿は見られない。

2005年にはパラナで才能の一角を見せながらも規律に問題を抱えていたチアゴは2006年にベガルタ仙台に移籍。ベガルタ仙台では35試合8得点と力を見せきれなかったが、2007年に移籍したフルミネンセで完全に覚醒。

プラカール誌が選出するブラジル全国選手権のMVPに相当する「ボーラ・デ・オウロ」に選出され、ベストイレブンに。

そして2008年にはコパ・リベルタドーレスで決勝に進出。優勝は逃したがLDUキトとの決勝戦でハットトリックを達成。大会史上、唯一決勝戦でのハットトリックを成し得た男として2022年9月にはギネスブックから認定を受けている。

得点力のある攻撃的MFとしてドゥンガが率いた北京五輪のブラジル代表にも選出され、ロナウジーニョらとプレー。もっともアルゼンチンとの準決勝ではマスチェラーノにタックルを仕掛け、退場となったのは「問題児」でもあったチアゴらしい場面でもあった。

2011年にはブラジル代表にも選出され、セレソン入りした元Jリーガーとしても話題になったが、キャリア晩年のハイライトでもあったクルゼイロでは英雄と悪役の二つの仮面を被ることになったのだ。

2017年と2018年にはクルゼイロでコパ・ド・ブラジルの優勝に貢献するも、2019年には低調なパフォーマンスを見せ、クルゼイロはクラブ史上初となるブラジル全国選手権2部降格を強いられた。

2017年にブラジルサッカー連盟が選出するブラジル全国選手権ベストイレブンが最後の個人的な栄冠ではあるが、2021年のスポルチでのプレーを最後にピッチから遠ざかり、事実上の引退状態だったチアゴは「すでにいくつかのコーチの講習は受けている。次のキャリアが輝かしいものになるのかどうか、考えないといけない」と指導者への道も選択肢に入れている。

現役時代に問題児だった名選手が名指導者になれることをレナト・ガウショらが既に示しているが、「チアゴ監督」が近い将来、ピッチサイドに立っていても不思議ではない。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2024年3月号表紙

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