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マリーニョ・ペレス クラッキ列伝 第167回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2023年10月号


マリーニョ・ペレス

事実は小説よりも奇なり、とイギリスの詩人バイロンは言った。

その言葉を象徴するようなクラッキがブラジルのサッカー史に名を刻んでいる。

マリーニョ・ペレス。1947年にサンパウロ州のソロカバ市で生を受けたマリーニョは紛れもないブラジル人であるが「ペレス」の姓が示すように両親はスペイン人で父は医師。第二次世界大戦後にブラジルに移り住んだ両親を持っていた。

ブラジルとスペインの二重国籍者であることが、マリーニョに新たな道を拓き、そしてとんでもない騒動に巻き込まれることになるのだが、自身と同じく医師になることを望んだ父の思いとは裏腹に、経済学を学んでいたマリーニョはやがてサッカー選手への道を歩み始める。

6人の姉妹をきょうだいに持つマリーニョはペレス家で唯一の男の子。幼い頃はコリンチャンスのサポーターだったというが、1958年のワールドカップ・スウェーデン大会でブラジルが初優勝を飾った足取りをラジオで聞いた少年マリーニョはサッカー選手になることを決意する。

特に17歳でブラジルを優勝に導いたペレは憧れの存在だったが、後にチームメイトになることなど知る由もない。

サンパウロ州の地方クラブ、サン・ベントでキャリアをスタートさせたマリーニョは20歳で名門ポルトゥゲーザに移籍。リーダーシップのあるザゲイロ(CB)としてブラジルサッカー界の王道を歩み始めるのだ。

1972年、ペレらを擁するサントスに移籍すると守備の要として1974年までプレー。1973年のサンパウロ州選手権優勝に貢献したマリーニョは1974年のワールドカップ・西ドイツ大会にキャプテンとして出場。決勝進出をかけた2次リーグの最終戦でオランダと対戦するのだ。

オランダを牽引するのはサッカー史に残る天才、ヨハン・クライフ。オランダに0対2で敗れ、キャプテンとして優勝トロフィーを掲げる夢は敗れたマリーニョだが大会後、スペインのバルセロナからオファーを受ける。

当時、バルセロナにはクライフとニースケンス(オランダ戦で得点を許した彼にマリーニョは試合中、肘打ちをしていたのだ)の両オランダ人が在籍。当時外国人枠は2人と限られていたがスペイン国籍を取得することを条件にバルセロナに移籍。難なく、二重国籍者となったマリーニョにブラジルのスペイン大使館の職員は気になる言葉を伝えていた。
「スペイン人である以上、スペインの軍隊で兵役に就かなければならないから、気をつけるように」。

バルセロナでは活躍するどころか、3年間の兵役で海軍に出頭するよう命じられ、その存在はスペインサッカー界で物議になったという。

そしてマリーニョはスペインを去ることを決断する。「脱走兵」としての立場に怯えながら。

1976年、母国のインテルナシオナウへの移籍が決まったがスペインのパスポートを放棄し、ブラジル人として国境越えを試みる。満員のバスに乗り、フランスに渡るともうそこには独裁者フランコの影響は及ばなかった。

バルセロナでは苦悩の日々を過ごしたかつてのブラジル代表キャプテンだったが、バルセロナで指導を受けたのは1974年のワールドカップでオランダを率いていた名将リヌス・ミケルス。「トータルフットボール」で知られる最先端の戦術を肌身で感じ、当時としては斬新だったオフサイドトラップをマリーニョはインテルナシオナウで用いるのだ。

当時、ライバルチームのカシアス・ド・スウでプレーしていた「フェリポン」ことルイス・フェリペ・スコラーリもマリーニョから守備戦術を学び、互いに指導者になってからも交流は続いていた。

1981年にアメリカで現役引退後は、ブラジル国内のみならずポルトガルなどでも指導者として活躍したマリーニョ。波乱のサッカー人生を送った男は2023年9月23日、天に召された。

マリーニョとは敵として、そして同僚としてピッチに立ったこともあるペレとクライフも空の上で手厚く出迎えたと信じたい。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2023年10月号表紙

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