見出し画像

ミゲル クラッキ列伝 第173回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年4月号

ミゲル

2026年に行われるワールドカップ北中米大会の開催やメッシらがインテル・マイアミに加入したこともあって、近年ますます盛り上がりを見せるアメリカのサッカー界。

古くはペレやベッケンバウアーが在籍したニューヨーク・コスモスが存在感を見せた北米サッカーリーグ(1967-84年)も行われていたアメリカに最初に渡ったブラジル人GKがいる。

ミゲルの登録名で知られた名GKだ。

1937年、ミゲル・フェレイラ・デ・リマはブラジル北部のリオ・グランデ・ド・ノルテ州のマカイーバで生まれた。

5人兄弟の大家族に生まれたミゲルだが、兄弟のうち無事に成長したのはミゲルともう一人のみ。文盲の父はロバに小物を積み、露天で売られる商品を売って回ることで生計を立てていたというが、当然ながら生活が楽なはずはなかった。

家に電気もなかった幼きミゲルは裕福な友人の家でラジオを聞くのが楽しみだったという。

聞こえてくるのは遠く離れたリオデジャネイロ市で行われるサッカー中継。

映像は見られなかったが、サッカーへの夢を膨らませたミゲルは当時、まだ自らの運命を知らなかった。やがてマラカナン・スタジアムのピッチに立って、自らのセービングで観衆を熱狂させることを……。

十代当時、地元のクラブ、クルゼイロでプレーした当初は点取り屋だったというミゲルだが長身の彼はすぐにゴールキーパーにコンバート。その後、ナタウの小クラブでプロ契約を結んだが、18歳にして人生で最初の大きな分岐点に立たされる。

貧しい地方生まれの少年が成功するには海軍に入るか、サッカーの道に進むかしかなかったのだが、1955年、ミゲルは新兵としてリオデジャネイロの海兵隊に入隊。海兵隊のサッカーチームでもプレーするのだが、海兵隊の指揮官はヴァスコ・ダ・ガマのサポーターでもあり、長身の才能あるミゲルをヴァスコ・ダ・ガマのスカウトに紹介。クラブが本拠を置くサン・ジャヌアリオ・スタジアムの門をくぐり、入団試験に合格したが兵役の期間中はアマチュアの身分で練習に参加するのだ。

当時チームにはマラカナンの悲劇で不当な批判を受けた黒人GKバルボーザも在籍していたが、ミゲルは1958年のリオデジャネイロ州選手権で優勝に貢献。1959年に好待遇で契約すると、両親をマカイーバから呼び寄せて家をプレゼントするほどの成功を見せていた。

その後、1963年にコロンビアのデポルティーボ・カリに移籍。決して少ない報酬ではなかったが、ミゲルはあえてクラブの寮に住み込みながらプレーする。少しでも貯蓄を増やすためだったのだ。

1964年から1966年まではドイツのケルンでもプレー。そしてミゲルはペレらよりも一足早く1967年から北米サッカーリーグをキャリア最後の地に選び、現役引退後はアメリカで指導者に。

その後、自身の名を貸した会社を設立し、アメリカ人や中国人の若者らをブラジルにサッカー留学させるビジネスに励んだミゲルはアメリカ在住のまま余生を送っている。

現役時代からフランク・シナトラをこよなく愛した守護神は早くから海外で活躍したブラジル人GKの先駆者の一人だったのは間違いない。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2024年4月号表紙

#サッカー #海外生活 #海外 #ブラジル #サンパウロ 
#月刊ピンドラーマ #ピンドラーマ #下薗昌記 #クラッキ列伝 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?