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ラミレス クラッキ列伝 第157回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2022年11月号


元ヘビー級王者のモハメド・アリはこう評されたものだ。

「蝶のように舞い、蜂のように刺す」。

ブラジル代表として2度のワールドカップに出場し、チェルシーでは欧州王者にも輝いたラミレスは、中盤で守備的な役割を果たす選手だったが、その役割は多岐に渡っていた。

アリ風にそのプレースタイルを語るなら、こうである。

「サイドバックのようにピッチを疾走し、ストライカーのように点を決める」

1987年、リオデジャネイロ州にあるバーラ・ド・ピライーで生まれたラミレスは、母子家庭で育った。

貧しい家庭環境で、ワールドカップに出ることなど考えたこともなかった幼きラミレス。

「サッカーは好きだったけど、家の家計を手助けしないといけなかった」

遊びの一環としてサッカーに興じたが、レンガ職人として働いていたラミレスだったが、足の速さは幼少から折り紙付きだったという。

ラミレスが育った地域の名前は「ボア・ソルテ(幸運を)」。サンタカタリーナ州にあるジョインヴィーレの下部組織でプレーしていたラミレスはまだ18歳だった2005年、トップチームでのチャンスを得る。当時のポジションは右サイドバックだったが、2006年から中盤でプレー。そして2007年に名門クルゼイロに移籍する。

まだ無名だったラミレスだが戦う姿勢と、中盤での献身的なプレーですぐに頭角を現すと2008年にはブラジル全国選手権でベストイレブンに輝いた。

2009年にはコパ・リベルタドーレスでクルゼイロの決勝進出に貢献するも、南米王者の肩書きは手にすることができなかったが、国内屈指のボランチとしてポルトガルの名門ベンフィカに移籍。そして2010年にはワールドカップ南アフリカ大会に出場し、大会後にチェルシー移籍を果たすのだ。

チェルシー時代に決めたスーパーゴールによって、ロナウジーニョと自身の名をかけた「ラミジーニョ」と呼ばれたこともあったラミレスだが、2012年には欧州王者として挑んだクラブワールドカップでコリンチャンスに敗戦。代表チームに続いて、所属クラブでも「世界一」に手が届かなかった。

2016年、中国の江蘇蘇寧に移籍金36億円で移籍。これは当時の中国国内で最高額だったが、2019年から再びブラジル国内を舞台にプレー。パルメイラスがラミレスにとって最後のクラブとなった。

2020年11月にパルメイラスと契約解除後は所属クラブがなかったラミレスだが2022年9月に現役引退を発表。自身のインスタグラムでは「熟考の末、この度、正式にプロ選手としての活動を終了することになった。スポーツ界における最高のレベルへと私を導き、可能にしてくださった神様に感謝するばかりだ」と綴った。

そんなラミレスがやり残したことに挙げたのはフラメンゴでのプレー。フラメンゴサポーターだった彼にとって「心のクラブ」のユニフォームを着られなかったことは心残りだったという。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2022年11月号
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