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ニンニク生産に貢献した長南俊(ちょうなん・たかし)さん 移民の肖像 松本浩治 2021年11月号

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#移民の肖像
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文

長南俊さん[1]

 ブラジル南部のサンタ・カタリーナ州クリチバーノスでニンニク生産を行う長南俊さん(67、山形県出身)。ニンニクの優良品種の改良が認められた「長南種(ちょうなんしゅ)」はブラジル国内でも有名となり、1995年にはブラジルの農業発展貢献者に贈られる『山本喜誉司(やまもと・きよし)』賞も受賞している。

 58年、21歳の時に単身ブラジルに渡ってきた長南さんは、サンパウロ南部のサンベルナルド・ド・カンポ市、北パラナなどを経て、70年に開始された温帯果樹プロジェクトのため、サンタ・カタリーナ州に転住。リンゴ、アメイシャ(スモモ)などの果樹を生産していたが、北パラナ時代から試験的に植えてきたニンニクについて、同船者から「このニンニクは輸入ものにも負けない」と言われたことが、ニンニク生産を本格的に始める一つの契機になったという。

 しかし、当時のブラジル国内でニンニクの生産量、輸入量がどれくらいあるのかが把握できなかった。長南さんはコチア産業組合の日系農業技師を通じて、ミナス・ジェライス州に住んでいたニンニク栽培専門家のセルジオ・マリオ・レジーナ氏に面会。同氏は長南さんのニンニクを見て、「これはブラジル一の品物になる。(長南さんの住む)ブラジル南部でニンニク生産を行えば(食糧としての)自給体制ができるかもしれない」と太鼓判を押した。

「長南種」の名称を得てブラジル政府にも正式に認可されたニンニクは、5年間の生産計画により輸入種制限も実施され、生産量は爆発的に増加した。

 長南さんの話によると、80年当時、約1万5千ヘクタールの面積にニンニクの植え付けが行われ、87年にはその8割が自給体制可能になったという。現在は機械化が進んだものの、当時は「1ヘクタールに対して、のべ400〜500人の労働力を必要としました」と言うから、ブラジル国内でのニンニク生産実現化が与えた影響は相当大きかったようだ。

 しかし、増産すればするほど地元の農業生産者組合では政治的な動きも見られるようになった。「私としては、日本人として組合をできるだけ良くしようとやってきたわけですが、組合員にはブラジル人も多く、『組合を牛耳れば金になる』と政治的駆け引きを利用して組合幹部になりたがる人も出てきました」と話す長南さん。自らのニンニクが認められた喜びの一方で、ブラジル国内での組合活動の難しさも目の当りにしてきた。

 そうした中、90年代初頭に中国から、ブラジル国内産の半値という安価な輸入ニンニクが台頭し、長南さんたちは頭を痛めた。

 その頃、全国ニンニク生産者協会会長でもあった長南さんはゴイアス州の生産者からダンピング(不当廉売)適用の助言を受け、その約1年後、実現にこぎつけた。当時の適用は、中国産ニンニク1箱(10キロ入り)につき4ドルの課税というもので、5年間の有効期限があり、2003年にはさらに5年間の延期が適用された。

 その後、中国側ではニンニクを第三国で生産してブラジルに輸出するなど、課税規制を免れようと様々な手立てを行なったが、長南さんたちは連邦税庁への働きかけなどで、国内品の価格維持を保ってきたという。

 今後のニンニク生産について長南さんは、「他の作物と違って7、8年ごとに変動の波が来る。これまでのように天井知らずのように伸びることがあってはならない」と戒める。一方で、昨今の消費者側の需要の変化も大きく、組合とスーパー・マーケットとの契約やニンニク加工品の生産、新品種の栽培など、新しい動きが求められているそうだ。

(2004年2月取材、年齢は当時のもの)


松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/


月刊ピンドラーマ2021年11月号
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