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フレッジ クラッキ列伝 第159回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2023年1月号

フレッジ

ブラジルサッカー界の若き才能が集うコパ・サンパウロ・デ・ジュニオーレス。「コピーニャ(小さなカップ)」の通称で知られるこの大会はサンパウロの市政記念日である1月25日に決勝戦が行われるが2003年1月12日、当時無名のストライカーがギネスブックに記録されるゴラッソ(スーパーゴール)を叩き込んだ。

ベロ・オリゾンテ市の古豪、アメリカのストライカーだったフレッジはキックオフ直後、センターサークル内で味方の短いパスを受けると右足を一閃。弧を描いたシュートは相手チームであるヴィラ・ノヴァのゴールに突き刺さった。

実に試合開始から3.14秒。当時世界最速ゴールとして認定された一撃は、フレッジのサッカー人生を一変させるのだ。

1983年に生まれたフレッジは、アメリカの下部組織でキャリアをスタートさせ、当時から点取り屋としての才覚を見せていた。しかし、メンタル面に課題を抱えていたこともあり、アメリカのクラブ幹部は2003年のコピーニャにフレッジを帯同させない予定だったが、父親がクラブと交渉し大会への出場が決まったのだ。

もっとも、大会初戦で退場処分となり、2試合目は出場停止。フレッジに残されたチャンスはヴィラ・ノヴァ戦のみ。そして、のちにブラジル代表として2度のワールドカップに出場することになる点取り屋は、試合開始から3秒あまりで最高のアピールに成功し、アメリカでプロのキャリアをスタートさせるのだ。

その後の成功はまさにシンデレラストーリーだった。2004年にクルゼイロに移籍すると2005年にはフランスの名門リヨンに引き抜かれたが、移籍金額は当時のフランスサッカー界で歴代2位の1500万ユーロ。その年の11月にはブラジル代表の一員として初ゴールもゲットし、ブラジルサッカー界期待のストライカーとして順調な歩みを続けていく。

印象深い場面がある。2006年のワールドカップドイツ大会のグループステージ第2戦、オーストラリア相手にワールドカップ初ゴールを決めたフレッジは、試合後にボールを記念に持ち帰ろうとしたのだ。

結果的に認められなかったが、サッカー人生を大きく変えてくれた父に捧げたかったと明かしたフレッジ。2009年にはフルミネンセに移籍し、万能型のストライカーとしてゴールを量産し続けたが、そのキャリアの集大成となるはずだった2014年のワールドカップブラジル大会では栄光の背番号9をつけて、ネイマールと共に攻撃の軸として期待。前年に行われたコンフェデレーションズカップではフェルナンド・トーレスと並ぶ大会5得点で得点王に輝き、ブラジルの優勝に貢献していたフレッジだったが、コンディションが万全でなくブラジル大会ではわずか1得点。屈辱的な敗退の原因を作った一人として糾弾されたフレッジだがその後もゴールマシーンとして稼働し続けた。

ブラジル全国選手権では得点王3回、コパ・ド・ブラジルでも1回の得点王に輝いているフレッジだが、その輝きが瞬間最大風速でないことを物語るのが総当たり形式で行われるようになった2003年のブラジル全国選手権以降、最多の158点をマークしていることだ。そしてコパ・ド・ブラジルでも天才ロマーリオを1点上回る通算37得点で最多ゴーラーに輝いている。

その長きキャリアで奪った得点数は実に417点。2002年7月9日、63,707人のサポーターが集ったマラカナンスタジアムで行われたフルミネンセ対セアラー戦で、フレッジはスパイクを脱いだ。

ゴール裏にはフルミネンセ時代に決めたジャンピングボレーの姿を形取ったフレッジの姿が登場した。試合後、マウンテンバイクにまたがって、サポーターに別れを告げる風変わりな別れもフレッジ風だった。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2023年1月号
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