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アウグスト・ダ・コスタ クラッキ列伝 第165回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2023年8月号

アウグスト・ダ・コスタ

世界最多となる5度の世界一を手にしてきたブラジル代表の歴史において、ワールドカップの優勝トロフィーをカピタン(主将)として掲げた男も当然5人のみ。

ベリーニ、マウロ、カルロス・アウベルト、ドゥンガ、そしてカフー。それぞれがブラジルのサッカー史に象徴的なシーンを刻みつけている。

そんな限られた栄冠を、あとわずかで逃した悲劇のクラッキがいる。1950年のブラジル大会で主将としてチームをまとめたアウグストである。

アウグスト・ダ・コスタは1920年、リオデジャネイロで生を受けた生粋のカリオカだった。

最初に所属したのは1935年にサン・クリストバン。アマチュアだったアウグストは1940年にプロ契約を結ぶ。屈強なセンターバックとして後に名を成すアウグストだが、プロ契約をかわした当初はウイングでプレー。しかし、スピードがなかったことから、サイドバックにコンバートされ、やがて、センターバックを主戦場にしていくのだ。

「精力的な選手で、ピッチ上では生粋のリーダー」というのがアウグストにつきまとった選手評。サン・クリストバンで1943年にリオデジャネイロ市の大会で優勝し、リオデジャネイロ州の選抜にも選出。こうした評価が1945年のヴァスコ・ダ・ガマ移籍につながっていく。

近年、すっかり昇格と降格を繰り返す「エレベータークラブ」になった感もある名門ヴァスコ・ダ・ガマだが、アウグストが移籍した一年目からリオデジャネイロ州選手権でたびたび優勝を重ね、「勝利の特急」と呼ばれた世代で主将としても存在感を高め、ブラジル代表でも主力に成長していく。

最終ラインで相手の攻撃を防ぐ、頼り甲斐のあるセンターバックをブラジルでは「シェリフェ(保安官)」と称するが、奇しくもアウグストはサッカー選手と警察官の二足の草鞋を履く名手だった。

1950年のブラジル大会で最終戦のウルグアイ戦では引き分けでも優勝が決まる有利な状況にも関わらず、1対2でまさかの敗戦。20万人を超える観衆が静まり返ったことは「マラカナンの悲劇」として永遠に語り継がれるが、圧倒的有利な自国開催の最終戦で、アウグストは試合前、主将として生えある初優勝のカップを掲げるイメージまで出来上がっていたとマラカナンの悲劇をまとめた書籍「ドシエ50」の著者、ジェネトン・モラエス・ネトに明かしている。

強い精神力を持つ人格者のアウグストにとってもマラカナンの悲劇の衝撃は大きなものだった。

ウルグアイのGKロッケ・マスポリに試合後、慰められた表情は虚なものだったが「マラカナンを出て、自宅にどうやって行ったのかさえ覚えていない。自分が何を言ったのか、誰と一緒にいたのかも分からないんだ」。

もっとも1941年から警察で勤務していたというアウグストは国家的な悲劇の翌日、出勤したという。同僚からの嘲笑を我慢して。

「ウルグアイとの試合を何度も夢に見た。夢の中でスコアはいつも違っていた。私たちは勝利し、私はトロフィーを掲げた。何度あの夢を見ただろう。あの日のことを忘れられるなら、それに越したことはない。でも、忘れることはできないんだ」

もはやブラジル代表でのチャンスは巡ってこなかったアウグストは1953年にヴァスコ・ダ・ガマでスパイクを脱いだ。

引退後はブラジルとポルトガルで監督も務めたが、短いキャリアで成功は果たせず、アウグストはリオデジャネイロの特別軍事警察で勤務。検閲事務局の責任者を務めたことでも知られている。

あと11分間、失点することなくウルグアイ戦が終わっていれば・・・。サッカー王国で最初に世界一のカップを掲げたカピタンはアウグストだった。2004年3月1日、悲劇の主将は生まれ故郷のリオデジャネイロでこの世を去った。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2023年8月号表紙

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