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シジネイ クラッキ列伝 第166回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2023年9月号

シジネイ

1980年代のサンパウロFCは、のちにブラジル代表で活躍する攻撃の名手たちを数多く輩出してきた。

カレッカやミューレル、シーラスらは当時、アメリカや中南米で人気を博ていたボーイズバンド「メヌード」が少年で構成されていたことにちなんで「モルンビーのメヌードたち」と評されていたが、そんな若手の一人がシジネイだった。

1963年にサンパウロ市で生まれたシジネイは6人の兄弟の一人で、貧しいトビアス家で育ったが、サッカーの才能は本物だった。

サンパウロ市内のアマチュアクラブでサッカーに興じていたが、ある日、サンパウロFCを相手にした練習試合で、彼の人生に光が差し込むことになる。

技巧派の黒人少年の才能に目をつけたサンパウロFCがスカウトしてきたのだ。

当時、15歳のシジネイにとっては左官工の父を助ける格好のチャンス。モルンビースタジアムの中にあった寮に住み込みながら、プロの世界を目指すことになったシジネイだったが、1984年にはトップチームに昇格。そして、一人の名将との出会いが、シジネイを選手としてスケールアップさせるのだ。

「僕は元々、中盤の選手だった。でも、シリーニョ監督が僕を左ウイングにコンバートにしたんだ。ピッタを中盤で使うためにね」

のちにシジネイ同様、ブラジル代表入りを果たすピッタは1982年、1983年にサントスの一員としてプラカール誌が選出するブラジル全国選手権のベストイレブンにも名を連ねていた名手だったが、1984年にサンパウロFCに移籍したピッタと共存させるために、シジネイはウイングでプレー。編み上げた長髪を風になびかせ、左サイドを疾走するシジネイはカレッカやミューレルらとともに1985年のサンパウロ州選手権優勝に貢献。決勝でも見事なドリブルから勝利に貢献するゴールを決めている。

テレ・サンターナが指揮官として復帰したブラジル代表は1986年のメキシコ大会で優勝を目指していた。国内屈指のアタッカーでもあったシジネイは29人の候補選手の一人だったが、負傷などもあって本大会行きを逃す。

代わって招集されたエジヴァウドは、1987年にサンパウロFCに加入し、シジネイのポジションを奪うという因縁も持っていた。

メキシコ大会行きは逃したものの1986年のブラジル全国選手権優勝に貢献したシジネイだったが1987年にはエジヴァウドに定位置を譲り、1987年3月にはフラメンゴに期限付き移籍するものの負傷などもあって思うような活躍は見せられなかった。

サンパウロFCでは196試合を戦い、17ゴールをゲット。キャリア最高の日々を過ごしたがシジネイは、「サンパウロFCでの日々は忘れられない。チームはとても強く、まとまっていた。ピッタ、カレッカ、ミューレル、シリーニョ監督ら、大勢の仲間たちと一緒にいられて最高だった」と振り返る。

現役引退後の1999年、スカウトとして草サッカーに足を運んでいたシジネイはサンパウロ市北部のグラウンドで試合観戦中、流れ弾に当たって、手術を余儀なくされたことでも話題を集めたが、命に別状はなかった。

現役時代、独特の髪型でも話題を集めた名手は、2021年にロンドニア州選手権で監督も務めているが「いつかビッグクラブを率いてみたい」と尽きぬ野望を語っていた。

2023年8月に60歳を迎えたシジネイ。まだ、第二の人生は続いていく。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


月刊ピンドラーマ2023年9月号表紙

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