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ゼ・テオドロ クラッキ列伝 第156回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2022年10月号

ゼ・テオドロ

サンパウロFCは過去、ワールドカップの本大会に数多くの右SBを輩出してきた。1958年のスウェーデン大会に出場したデ・ソルジや2006年のドイツ大会でメンバー入りしたシシーニョ、そして過去4度の本大会を経験したカフーもその一人である。

ブラジル代表では最多のワールドカップの試合数を経験しているカフーは、サンパウロの下部組織時代から複数のポジションを経験してきた。中盤でプレーしていた若き日のカフーが、右SBにコンバートされるきっかけになったのが隠れた右SBの名手、ゼ・テオドロである。

1963年、ゴイアス州のアナーポリスでゼ・テオドロは生まれた。

名門ゴイアスの下部組織で育ち、当時は技術の高さと戦術眼を併せ持つプレースタイルだったが、やがて右SBにコンバート。その後、プレーデビューを飾ったゼ・テオドロは168cmと小柄だったが、SBとしての全てを兼ね備えた選手だった。

1985年、サンパウロに移籍するとレギュラーに定着。1991年までに出場した試合数は262試合だったが、手にしたタイトルも4度のサンパウロ州選手権と2度のブラジル全国選手権。

コパ・リベルタドーレスには縁がなかったものの、十分にクラブ史に名を刻んだと言ってもいいだろう。

1991年のサンパウロ州選手権の決勝、ブラガンチーノのとの一戦は豪華そのものと言っていい顔ぶれだった。翌年から2年連続で南米王者と世界一を手にするサンパウロを率いたのは名将、テレ・サンターナ。ゼ・テオドロは最終ラインをレオナルドやリカルド・ロッシャら後にワールドカップを経験する名手と構成した。キャプテンを務めたのはライーで、前線ではミューレルもプレー。カフーはこの試合では中盤でピッチに立っていた。

ブラジル代表の出場数はわずか2試合にとどまったが、1991年にサンパウロを後にするとグアラニーやフルミネンセでもプレー。1980年代から90年代初頭にかけて王国屈指の右SBだったのは間違いない。

1996年にクリシウーマでのプレーを最後にスパイクを脱いだゼ・テオドロではあるが、現役時代よりも長いのが指導者としてのキャリアである。
 ポルトゥゲーザやスポルチ、セアラーなどで指揮を執ったゼ・テオドロはほぼ毎年のように率いるクラブを変え、58歳になった今もサッカー界をしたたかに生き抜いている。

当時中南米を席巻したボーイバンド「メヌード」になぞらえて、「モルンビーのメヌード」と呼ばれた強い時代のサンパウロがあった。サンパウロ在籍時に決めたゴールは7得点。決して派手な存在ではなかったがゼ・テオドロは、6つのタイトルと共にサポーターの心の中にあり続けるのだ。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2022年10月号
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