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テルト クラッキ列伝 第174回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年5月号

テルト

サンパウロFCのホームスタジアムでもあるモルンビー(ネーミングライツによって現在はモルンビス)のゴール側に、2024年4月9日、一人のクラッキの在りし日の姿を写した白黒写真が飾られた。

テルトの登録名で知られたFWがこの世を去ったのだ。

クラブは半旗を掲げて追悼したが、サンパウロFCの選手としてブラジル全国選手権で第一号のゴールを決めた男として、その名をクラブの歴史に刻み込んでいる。

テルトゥリアーノ・セヴェリアーノ・ドス・サントスという正式名を持つテルトが生まれたのは1946年のこと。サンパウロFC移籍当初、「ノルデステのペレ」の呼び名を持っていたことから分かるように、レシフェで生まれ育った。

幼き頃に両親が離婚。親類のところに身を寄せ、生活せざるを得ない不遇の少年期を過ごしたテルトだったが、彼には屈強なフィジカルと、サッカーの才能が備わっていた。

当時、ペルナンブーコ州選手権を牛耳っていたのは名門ナウチコだったが、宿敵サンタ・クルースで1965年、プロデビューを飾り、1967年に頭角を表した。

サンタ・クルースのチームカラーは「黒・赤・白」の三色でトリコロールの愛称で知られているが、テルトは1968年、奇しくも同じチームカラーを持つサンパウロ州のトリコロールに移籍する。

生まれ故郷を離れ、サンパウロに向かう際、テルトはキッパリと言い切った。

「俺は貧乏人だ。サッカーの世界で打ち勝ちたい」

黒人選手ゆえに付けられた「ノルデステのペレ」なる呼び名だが、サントスが輩出した天才とは異なり、テルトは決して技術面で秀でた選手ではなかった。

大都会のライフスタイルに馴染むのにも苦労し、夜遊びに明け暮れた結果、練習に遅刻することもしばしば。

「遅くまでテレビを見ていたんだ」「俺は不眠症だ」などと言い訳をし、一時はセンターバックなどでも起用されたことがあったテルトだが、徐々に前線でその定位置を確保するのである。

テルトについてプラカール誌が特集した際の見出しは「ガソリン不要の重戦車」。つまり無限であるかのようなスタミナを活かして、ピッチ狭しと駆けるのが特徴だったが、サンパウロFCでは10年間の在籍期間で498試合に出場し、86ゴールを奪っている。

テルトの興味深いエピソードを振り返るのは、ウルグアイ代表として4度のワールドカップに出場したサンパウロFCの英雄の一人、ペドロ・ロッシャである。

「『グリンゴ(外人を意味するスラング)よ、俺の足元にボールを出さないでくれ。センターバックの頭上にボールを入れれば、俺が走り込んでゴールを決めるから』ってテルトは語ったものさ」(ペドロ・ロッシャ)

ゴール前だけでなく、ボールを失ったあとは泥臭く奪い返すそのスタイルは、いつしかサポーターの心を確かに掴んでいた。

1977年にはリベイラン・プレットのボタフォゴと契約し、偉大なるソークラテスともプレー。1982年にスパイクを脱いだ後も、サンパウロFCのソシオの子弟にサッカーを教えるなどクラブとの蜜月関係が続いていた。

1971年8月14日、対サントス戦。サンパウロは1対3で敗れたが、モルンビーでテルトが決めたブラジル全国選手権最初のゴールは、永遠に語り継がれていく。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2024年5月号表紙

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