母親とコムデギャルソン(後編)
母親とコムデギャルソン(前編)の続きです。
コムサデモード(現コムサ)のパーカーを羽織ると何かが変わると思い込んで探し求めた末に、中学生の僕はコムデギャルソンの店内に迷い込みます。
一人で梅田駅を降りることも初めてに近い中学生には、あまりに異空間な店内。
そして、44歳になった今でも「感じ悪いなあ」と思わせるような、スノッブなコムデギャルソンの店員。独特の気取った、ツンツンしたフレンドリーさが決定的に欠けている人たちが大半の空間(と、少なくとも僕は感じる)。
「いらっしゃいませ」も言ってもらえないのか。
俺は空気なのか、
俺は虫けらなのか。
学校と同じか。
また俺は無視されるのか。
俺は値段を調べにきただけだよ。
気に入ったら、お母さんに買ってもらおうと思っている。
言ってみれば、将来の客じゃないか。
そんな俺を無視するのか。
僕はそんなに価値がないのか。
俺は、いつも無視されている。
価値のない人間なのか、やはり俺は。
クソ、クソ、悔しい。
無言でお店を出て、肩を震わせながら家路を歩きます。泣いていた気もするか、泣いてはいなかった気もします。30年前のことで、曖昧な記憶。ただ、肩がグッと硬くなって、心臓を掴まれたような胸の窮屈さがあり、呼吸は浅くなっていたこと。その身体の感覚は覚えています。
後に登校拒否になるまでに僕の中学生活は悪化していくのですが、学校内でほぼ孤立している自分の状況が、コムデギャルソンの店内で無意識の中でリンクしてしまっていたのだろうと思います。
本当に辛かった。
1日、誰とも会話しないまま帰宅した日であっても、もう少しマシな気分だったかもしれない。本や雑誌、ラジオなどが僕の孤独を紛らわせてくれました。でも、あの日はその域を超えて自分自身への怒りと絶望が混じった独特の黒さが身体の中に溜まっていきました。
僕を見るなり、母親は「どうしたの?」と聞きました。
離婚した母親の彼氏が気に入らず、反抗期で、ギクシャクしていた中で僕はコムデギャルソンでの屈辱を訴えました。
母親は聞き終えた後、「何か、欲しいものあった?」と聞きました。唯一記憶に残っていたので、僕は「白いシャツ」と答えます。
「買いに行こうか」
母親はそう言って、翌日、母親と僕はコムデギャルソンへ向かいました。復讐をするような、敵討ちをするようなそんな気持ちで僕は、母親とほんの少し距離を取りながら歩きました。
もし学校の同級生に母親と梅田を歩いている姿を見られたら、マザコンだと思われてもっとバカにされるかもしれない。これ以上、惨めなことになってしまったら、身が持たない。
「お母さん、一歩後ろをついてきてくれ」
母親は無言でうなづき、店内に入りました。
母親は僕を24歳のときに産んでいるので、当時38歳ぐらいだったはずです。子供の頃はわからなかったですが、今振り返るとオシャレな部類に入った気がしますが、ハイファッション系の婦人服が好きだったはずです。母親という存在も僕と同様に、コムデギャルソンの店内では異質でした。
相変わらず、挨拶をしない店員たち。
母親は白いシャツを見つけて、「これ?」と聞きます。僕は昨日のことなのに記憶がないまま、「うん、それ」と言い、値札を見て驚愕しました。
当時で、6万円弱もしたのです。コムサデモードというカッコいいロゴも入っていないただの白い色のシャツが、こんなに高いのかと。
想像以上に高すぎて、僕の頭は真っ白。母親に「帰ろう」と言おうとする間もなく、母親はレジに持っていきました。幼稚な僕は母親への申し訳なさと、でも何かに勝利したといった訳のわからない興奮とさまざま入り混じった気分です。
その後、梅田でお茶か食事をしたのか、そのまま家に戻ったのか、その辺の記憶も残っていません。ただ、あの母親はカッコよかったなと。自分に子供がいたとして、6万円のシャツを価値もわかっていないのに買えるかなと。それを思うと、さらに当時の母親をカッコよく感じます。
母親の日が最近あったことや、心斎橋のコムデギャルソンの店員がこれまた感じ悪かったので、こんなことを思い出しました。(イッセイミヤケやヨウジヤマモトと違って、コムデギャルソンの店員は本当に問題があると思います笑。)
あの悲惨な中学時代を、どう自分が克服したのか。その後、高校大学、社会人になった後も幾度もその要因をさまざまな人たちに話してきました。
「母親の離婚のせいで俺は内向的になって、拗れていき、いじめられ始めたのだ」と。そういうストーリーを作るのは簡単で、実際、そう思い込んでいた時期もあります。でも、あの日のコムデギャルソンでの救いがなければ、もしかすると自死していたかもしれない。当時、本当にギリギリだったから、あれは救いだった気もしてきます。
10数年前に亡くなった母親に、今更感謝するのもどうかと思いますが、あれは有り難かった。ただのボンボン学校のバカ息子と母親の話だと感じた人もいたかもしれないけれど。その後家は傾いて、経済的にも大変だったから、母親の経済観の無さを蔑むこともできなくもないけれど、でも救いだったとも。そんなことを思いながら、筆を置きます。
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