水をやる。

レッスンの最初に好きな言葉や文章を朗読するヨガの先生がいる。

過去に経験したピラティスやフェルデンクライス、ジャイロキネシス、ヤムナなどではそういった文化はなく、敢えて言えば、中国拳法の講習会に通っていた時期によく先生がお薦めの本を紹介くださったりする程度で、僕にとっては新鮮な気分だ。

ティク・ナット・ハンの本を、今日の先生は読み始めた。

レタスを植えて育ちが悪くても、それをレタスのせいにはしないで、なぜうまく育たないのか原因を考え調べてみるでしょう。肥料が必要なのか、とか、もっと水が必要では、とか、日あたりがよすぎた、とか、いろいろ考えてみて、決してレタスのせいにはしないと思います。しかし友人や家族とのあいだに問題が起きると、すぐにそれを相手のせいにしてしまいます。そうではなくて、このような問題にうまく手当てをすれば、レタスのようにうまく育てることができるのではないでしょうか。

この話は知っているような気がするけれど、読んだのか。或いは誰かに教えて頂いたのか。思考が巡り、その後、少し頭の中が落ち着き、素直に受け取りはじめる。そのヨガの先生の純粋さからか、レッスン前のこの時間を可愛らしくも感じたりもする。

レッスン中は余計な思考から離れて、身体に意識を巡らせながらアーサナと向き合う。充実した時間の最後、仰向けになったシャバアーサナの刹那、先生はふたたび朗読をはじめる。

あるときパリで、レタスを責めてはいけない、という話をしたことがあります。話をおえ、ひとりで歩く瞑想をしながら街角を曲がっていると、8歳の少女が母親と話しているのが聞こえてきました。
 「ママ、私にお水をやるのを忘れないでね。私はママのレタスなんだから。」
 この少女は私が話した大切なところをちゃんとつかんでいました。私はとても嬉しくなってさらに聞いていると、母親がこう応えました。
 「そうよ。ママもあなたのレタスなの。だからママにもお水をやるのを忘れないでね。」
 母と娘がこんなふうに一緒に気づきの練習をしているすがたは、とても美しい光景でした。

シャバアーサナは、屍のポーズ。自分の身体から意識が離れた状態で、自分の身体を客観視し続けなければならない。ただリラックスするわけではなく、観察し続けなければならない。言葉が頭ではなく、身体に染み入るような感覚をただ観察していた。

振り返るとこの内容は知っていたにも関わらず、初めて聞いたような新鮮さで、心が潤いを感じて、少し涙が流れそうになっていた。45歳の中年の僕はその時、魂においてはヨガのこの時間を通して、少年に戻れたのだ。文章の受け取り方、耳から入ってくる言葉からの反応の変化の違いに、良い時間が過ごせたと嬉しくなりながら、車のエンジンをかけた。


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