どこかの水槽の脳みそだったら

本当は、どんな色をしているんだろう。

カーテンの隙間から一筋。光が入って、それが枯れかけのベンジャミンの、数少ない生き残りの葉を貫いていた。一閃、鮮やかな緑がきらめいていた昼下がり。私はリビングに座ってその鮮やかな色を見ていた。とてもきれいだった。

この葉っぱは、本当はどんな色なんだろう。

不意にそう思った。そして気が付いたのだけど、この世の誰も、本当の色なんてわからないのだ。いま、私がきれいだと思っているこの一筋の鮮やかな緑は、私の目から入った光を脳みそが処理して認識しているだけに過ぎない。じゃあ、私の横でぐーすか寝ている、ちょっとおまぬけでかわいい愛猫が見れば、ほんとうの色はわかるんだろうか。いいや、わからない。その色だって、猫の脳みそが見せているものなんだから。

じゃあ、この世のほんとうの形なんて、だれにもわからないんだ。
この世に在るものは、私の脳みそが「在る」って思ってるだけだ。そしてそれを「在る」と断定できるのは、私以外のみんなが「在る」というから。もしも隣で昼寝をしている母親を叩き起こして、母親がベンジャミンを「ない」といってしまえば、もうそれが「在る」のか「ない」のかなんてわからない。急遽、弟を呼んできて「在る」か「ない」か、聞いてみないといけない。それくらい、この世は不確かだ。この世に「在る」ものは、大勢の人が認識しているから「在る」だけだ。怖いことに、私だけが「在る」といったところで、それは世間一般では「ない」のだ。でも私にとっては「在る」。

じゃあ、逆に言えば。
この世のものに絶対的な意味も、形も、価値もない。大勢の認識の上で「つらい」と思われることは「つらい」ことで、大勢の認識の上で「有意義」なことは「有意義」なことだ。それだけだ。それだけだから、私にとって「有意義」なことは、たとえほかの人間と違っても「有意義」であっていい。私にとって「在る」ものは、例えば幽霊が見えるとか、聞こえるはずのない音が聞こえるとか、たとえ周りに否定されても私が「在る」とすれば、存在していいはずなのだ。世の中は、それだけ不確かなものなのだ。

価値も、意味も、悲しみも楽しさも、何もかも「脳みそが決めた」のだ。

この世に起こる、大勢に認識されている事象が在る。それはあくまで在るだけで、そこに意味を付与するのは自分自身。それに価値を見出すのも自分自身。この、体のてっぺんに居座ってる、とんでもない処理能力を持っているすごい塊だ。なんかめちゃくちゃ柔らかいらしくて、実際の能力は全然お披露目してくれないらしい。

そんなことを考えたのが一週間前。はまっていた韓国ドラマを完走して余韻に浸っていた時だ。

そこからすこぶる楽だ。生きるのが。

人の機嫌が悪そうでも、「いま、機嫌の悪そうな人がいるだけ」。それに「嫌だ」とか「恐い」とか意味付けするのは私の脳みそだ。そう思わなければ、ただ「不機嫌そうに見える人が目の前にいるな」で終わる。面倒な問い合わせが来たって「いま、問い合わせがきている」という事象がある。それを「めんどうな仕事」とラベリングして困惑するのはよして、「解決のために考える」だけでいい。なんとなく、そうやって考えるようになったら、なんだか心が軽くなった。


弟に教えてもらったけど、「水槽の脳」って仮説があるらしい。曰く、「今みている現実は、全部水槽に浮かんでる脳みその夢なんじゃないか」って。
いま聞いてる音楽も、感じてる寒さも、キーボードをたたく感触も、目の前のディスプレイも、今こうやって考えている文章だって、全部全部、どこの誰ともしらない脳みその見ている夢だったら?

そんなぐらぐらの世界なんだから、目の前の事象の意味付けくらい勝手にしたい。辛いとか悲しいとか、面倒くさいとか。

夢なら夢で、できるだけ楽しい夢じゃないと。
水槽で一生終える脳みそが在るなら、それはさすがに可哀そうじゃん。

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