📓口紅の呪縛

20代半ばのころのお話。
いま思えば、あんなに病む前に別れてしまえばよかったのだけれども、当時の私は「彼と別れたらひとりぼっちになってしまう」という間違った恐怖心しかなかったため、毎日のように顔を腫らして生きていた。
その間違った恐怖心は彼からの圧力によって生じているものだと気づいたときに、やっと自分を解放してあげられた。
３年くらい苦しんだと思う。
いわゆる「モラハラ彼氏」だった。

別れてもう何年も経つのに、いまだに当時禁止されていたことがうまくできない場面があったりする。
一種の後遺症なのだと思う。

たとえば、電車。
私だけが座って彼が立っているという状況は許されなかった。
どれだけ疲れていても、どれだけ生理痛がひどくても、１席だけしか空いていないときは座らせてもらえなかった。
生理痛がひどすぎてドア際に座り込んでしまったときは、「恥ずかしいから立て」と言われて立たされた。

あきらかにおかしい状況なのに、それが正しいことなのだと思いこんでいたのだが、「異常だ」と気づかされることがあった。

あるとき、彼は電車の中で腹痛を訴えた。
そしてあろうことか、自分だけ１席空いた座席に座ったのだ。
この人は、私に禁止していたことをするんだ、と思った。

愛情だとか信頼だとかは、一気には崩れない。
少しずつ少しずつ、ぽろぽろと崩れていくものなのだ。
「いきなり別れ話をされた！」
などと憤っている人をたまに見かけるが、そういった人は、「いきなり」と思ってしまうほど相手のことをまったく見ていない、矢印が全部自分向きな人なのだと思う。
シグナルは発しているはずである。

彼は、たまごについている、賞味期限が書いてあるシールも嫌がった。
剝がさないと怒られるのだが、賞味期限を把握していないとそれはそれで怒られる。
ゆでと生がわかるように、ゆでたまごに油性ペンで「ゆで」と書いたら、それも怒られた。
ちなみに、電車の件もタマゴの件も、これといった理由は聞かされず、ただ「嫌だから」というだけであった。

電車に関しては、いまだにそういった状況になるととても怖いので、すごく空いているか、すごく混んでいるか、電車にはどちらかの状況でいてほしいと思う。

たまごに関しては、この彼と別れるように私を説得してくれた男友だちに救われ、すぐに克服した。
ゆでたまごに顔を描いてほしいと言われたのでいろいろな顔を描いたところそれが大好評で、ゆでたまごを作るのが楽しくなった。

彼は私がハイヒールを履くことも嫌がった。
これは、彼と別れたあとも結構な確率で遭遇する妖怪であるが、私の背が高いのではなく、私がハイヒールを履くことを嫌がる人の背が低いだけであって、私は何も悪くないと思うので、ハイヒールは魔除けだと思っている。
裸足でも私より背の低い人とおつきあいしていたときに「好きな靴を履いたらいいよ」と言ってくれたときは、なんて寛大なのだ、と思った。
背が高いより心が広いほうがいいに決まってる。

そのほかに、最近までずっと恐怖の対象だったものがある。
口紅だ。

当時の私は「お給料をもらいながら勉強させてもらってる」という気持ちで働いていたこともあって、薄給であった。
そのせいもあって、化粧品はつねにプチプラだったが、どうしてもほしいデパコスをみつけてしまった。
「これを買うお金があったらあれもこれも買えるなあ」という気持ちと「あれとこれをガマンすればこれが買えるなあ」という気持ちの間で揺れ動き、結局私はそれを買った。
かわいいケースに入ったリップパレットで、単色でもいいし、混ぜて使ってもいい、といったものだった。

それまであまり口紅にこだわったことはなく、薄い色のグロスをつけるくらいだったのだが、さすが海外ブランドといった感じの発色で、たったそれだけですごくおしゃれな人になれた気がした。

彼との待ち合わせに、初めてその口紅をつけて行ったときのこと。
私を見つけるなり、ものすごい汚いものを見るような目で私を見た。

「なんやねん、それ」
「それ？」
「口。気持ち悪っ」

私が一生懸命働いて、自分がちょっとでも変われるんじゃないか、かわいくなれるんじゃないかって思って買ったものを「気持ち悪い」の一言で片付けられてしまった。
この人は一体誰なんだろう。

当時BMI 18だった私に対して痩せろ痩せろと言い続け、私を摂食障害にしたのも彼だった。

交差点のど真ん中で過呼吸を起こしたときには「恥ずかしいから立て」と言って引きずられた。

そうして私にかけられた洗脳は、ちょっとした違和感によって少しずつ剝がされていった。

よかったことがひとつだけあるとしたら、モラ気質の人がすぐに見抜けるようになったこと。

モラ気質の人のやっかいなところは、「特定の人にしかその気質を発揮しないケースが多い」ということ。
その「特定の人」というのは極めて内側にいる人であることが多く、それゆえ外面が良く、やっとの思いで誰かに相談しても「あの人がそんな」という言葉で片付けられてしまう。
だから、「外面が良い」という評判がある人や、近い関係になったときに豹変する人は警戒するようにしている。
当然のように、モラ気質の人は自分自身がまさかモラ気質であるだなんていう自覚はないので、対策としては「即逃げる」の１択しかない。
「いつか変わってくれるはず」なんて思わないほうがいい。

結局その口紅はそれ以降使うことはなく、あのころよりもちょっとだけ自由に使えるお金は増えたけれども、そのブランドの化粧品は、あれ以来なんとなく買えずにいる。

そんな私を変えてくれた人がいる。
メイクやカラーのプロでありながら、研鑽を怠らず、つねにいろいろ勉強、吸収を重ね続けているかっこいい人だ。
ブラウン系の地味な口紅を好んで使っていた私に「こういうほうが絶対似合うよ」と言って、あのとき「気持ち悪い」と言われた以上の派手なカラーの口紅を試させてくれた。

別人になれた気がした。

自分のことが嫌いとか、自分を変えたいとか思っていたわけではないけれども、鏡のなかの、とんでもなく別人のような自分を見た瞬間、何年も前の呪縛がするすると消えていった。

ここ２年、マスクが手放せなくなって、今後もきっとマスクなしで外出するのはなんだか恥ずかしい気持ちになるのではないかと思っている。
けれども私は、マスクの内側に楽しみを見つけてしまった。
誰のためでもない。
究極の「自分のためのメイク」だと思う。

口が１つでは足りないくらいたくさんの色味の口紅を買いそろえた。
ヘアカラーの抜け方によって使い分けるのが一番楽しい。

「気持ち悪い」の一言で、何年もこの楽しみを封印されてきたなんて。

あとは、あのとき買ったブランドの口紅を買えればよいのだけれども、現在発売しているもののなかでほしいものがないのが難点だ。
「これだ」と思うものが出るまで待とうと思う。
きっと私の宝物になると思う。