見出し画像

本当は怒りたいんだよ。

教員の頃、私は『怒り』というものを使う場面を決めていた。

自分や他人をわざと傷つける行為をしたときと、命の危険がある行動をしたときだけ。

道路に飛び出してとっさに「こら!」と言ったりすることはあっても、感情のまま怒鳴ったり説教したりはしない。
怒りはぶつけるものではなく、使うもので半分演技だったりする。


なぜかって、感情をコントロールできず「子どもたちのために」なんて言葉で聖剣っぽいのを振りかざすのは指導者として未熟だと思っていたから。
聖剣だろうが剣は剣。ゲームじゃないんだから剣は守るために使うものだ。


よく怒る先生の教室は独裁政権、恐怖による政治だと思っていた。

事実、私は1年目の非常勤講師で怒る教育と怒らない教育の差を見てしまった。
例えば、先生のいないときに教室の備品を誰かが壊してしまったとする。
前者は「どうしよう」「先生に怒られる」と隠そうとするクラスができた。
後者は「先生呼んでくる」と困ったら先生に言えるクラスができた。おまけに自発的に動く。

もちろん、後者の先生も時折感情的になって怒ることもあるが、いいことか悪いことかは本人達になるべく考えてもらっていた。小学校1年生でも。


結局怒ったらいい子になるのは、怖いからなのだ。だから先生が見えない所に出たら、好き放題。
つまり言い訳して怒る指導者は、怒ることでしか指導できない指導力のない人だと思っている。

だからこそ私は使う場面を決めた。
そもそも怒りは最終手段で諸刃の剣なのだ。信頼関係があるから、滅多に怒らないからこそ効くもので、いつも怒ったり自分の怒りをただぶつけたりしていたら、効いているようで表面だけになる。

これは子ども達の話だけど、大人だって同じ。
私はその後軽度障害者の就労支援員をしたが、何ができなくても怒らない。ムカつくこと言われたら「それはムカつく」とか返すくらい。


あぁ、一度私があまりになんでも信じ込むから本当っぽい嘘をつきまくった子がいてそれは怒ったな。
「嘘ついて面白がってもいいけど最後はちゃんと嘘と言って、でないと本当のこと言ったときに私が信じられなくなるでしょ?」

嘘ついていいんか!って思う人もいるかもしれないけど、保身のための嘘ではなかったから別に誰かを傷つけないならいいと思えのだ。この場合冗談というのに変わるのかな。



これだけ長いこと書いて、本題にやっと入る。
そういう考えでも私だって怒りたいときはあるって話。

先日、お仕事で約束して相手が時間に遅れた。
お仕事は、相手がお仕事だ。私はお金払った方。話すのはオプション。とはいえ相手からしたら仕事のはず。

Zoomなのに5分過ぎても連絡がない。
連絡すると軽いトラブルがあったみたいなので、優しく「大丈夫」と返事した。

遅れること自体は別にいい。大丈夫なのは嘘ではない。
しかし、仕事なのに、すぐに返事できるのに、なぜ自分から連絡しない?
時間が近づいている段階で私のことは思い出さないのだろうか、時間を気にかけないのだろうか、後回しにしてもいい存在なのだろうか。
事前にURLが来ているわけでもない私は約束を忘れたのだろうかとすら思った。


「仕事なのに自分から連絡しないのはどうなんですか」
と言いたかったよそりゃ。

でも言った所で、普段はちゃんとしてるのかもしれないし謝る時間が長くなるだけだし別に相手を改めさせようとも思わないし空気悪くなるし…
こんな話をするくらいなら別の話をしたいのだ。めんどくさ。

と思った結果が「大丈夫」と優しい返事になる。

そういう対応ばかりするので「優しいね」と言われることもよくあるけど違う。注意や怒ることが面倒なだけなのだ。怒ることで何が生まれるかを考えると使うエネルギーの割に生産性がなさすぎて怒れないのだ。

「仏の顔は3度まで」という言葉があるが、私は本当にこのタイプ。
毎回やるわけじゃないかもと流し、顔は笑ってても頭は怒りマークでさりげなく感情を出し、それでもダメだった3度目とか何度目かに正論を飛ばしまくる。

しかも私がそこまで言わないのはそもそも言った所で変わると思ってないからだ。期待してないのだ。
誰しもに注意されそうなことができてないなら、きっと痛い目に遭わないとわからない。私が言ったくらいで直せるならとっくに直っているはず。
だからその人に労力をかけるのが無駄と思うのだ。そんな冷たい考えなので相手に時間を使う方が優しい気もする。
教員や支援員なら怒らなくても言うことは言う。人に労力かける仕事ですから。

しかし、だから、労力かけても本人が変わる気がないとなかなか変わらないことを知っているから仕事以外で注意する気になれない。

仕事も役割だから言うだけで、滅多に怒りはしない。



しかし本当は晒しあげたいくらい怒ったことだってある。
正義の鉄槌みたいなものだろうか。

晒せばみんな自分の味方をするし、本人は非難されるし、まさに痛い目見て反省するかもしれない。

しかし、正義を振りかざして相手を傷つけていい権利なんて自分にはないと思っている。
今の時代、晒し上げるのは簡単で、それは『正義』という名の暴力に見える。
やられたらやり返していいのは、正当防衛だけ。そもそも頭で考えて攻撃している時点で防衛ではないと思う。正義を振りかざすなよ。


仏の顔の間だって本当は怒りたい。
兄弟が多い私は正論が強いので矛盾点やら色々見つけて指摘する。脳内はスカッとジャパン。

それを3度目に言う時もあれば、言う時は「もう関わらないでください」のときなので、これまた時間の無駄だとできる限り必要最小限だけ言ってさよならの時もある。爆発するのは、それはもう相当感情的になった時。
怒りなんて、ぶつけてもスッキリしない。後味が悪い。

ムカついた話ほど話せる相手を選んだりするので言ってくれるのは光栄だし私も話す。でも怒りそのものを、ぶつけるぶつけられるは嫌いなのだ。


そんだけ考えた結果だから冷静に怒るけど、本当は大声で「こいつはこんなことした!」って言いたいこともある。
最終から笑って優しげな返事をしないで、怒りたいこともある。

でも誰が相手を裁く権利があるのか?改めさせるなんて、おこがましい。何様だよって思う。


正直でいたいけど、そのために感情のコントロールしないのは別問題だと思う。

不満を「なんで言わないの?」って聞く人がたまにいるけど、なんでもかんでも正直に言ってたらめんどくさいことだらけじゃないか。
言ったらわかる相手しかいなかったら戦争なんて起きないのだ。

それでも感情のまま怒る人が時に羨ましい。自分勝手だなって(笑)
じゃあそうなりたいかといったらNoで、好きに言えるメリットよりも言ったことで起こる面倒や相手との対応、それから他人に厳しくすると結局自分も厳しくされるだろう、というデメリットの方が私にとって大きい。

だから怒りたい気持ちを抑えて黙っておくのだ。



それだけ考えて、言わない選択をしている。晒さない選択をしている。
怒ってないわけじゃない、傷ついてないわけじゃない。悔しいときもある。
それができるのは、怒り話も聞いてくれる人がいるからかもしれないけどね。いつもありがとう。

こんだけたらたら書いて今日叫びたかったことは「本当は怒りたいときもある!」という、ただそれだけなのだ。

それを誰かに知ってほしいなと思った。

いただいたサポートは人のケアに使える勉学に使って周りに還元させます!