「女のいない男たち」構成読み解き【村上春樹】

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 「女のいない男たち」は2674年(西暦2014年)に発売された短編小説集です。「まえがき」にあるように、『この本は音楽でいえば「コンセプト・アルバム」に対応するもの』になります。同じテーマが少しずつ形を変えながら、何度も繰り返し反復されるのです。

恋愛の奇跡性と浮気

 社会的動物たる人間は、例えどのような状況にあろうと、「ここ」に対して「ここではないどこか」を措定します。

 宮台真司『「絶望の時代」の希望の恋愛学』では、「ここ」と「ここではないどこか」を重ね合わせる「変性意識状態」(目眩や酩酊、トランス状態)が恋愛にとっての肝心だとされています。

 我々が考える、共同体の最小単位たる家族は、ロマンティック・ラブ・イデオロギーによって何とか支えられています。これは村上春樹の小説における、男女関係も同様です。ロマンティック・ラブ・イデオロギーは歴史的に見て非常に新しく、脆い概念です。そしてこれを支えるのが、他でもない「変性意識状態」になります。

 これらの短編に一貫して登場する、「恋人や妻の浮気」というテーマ。これの遠因となるのは、「変性意識状態」を体験することの欠如です。これに失敗すると、相手は次第に不満を募らせ、「もっと違う何かを見つけてみたい、もっと多くのものごとと触れあってみたい」(「イエスタデイ」、文庫版106頁)と考えるようになります。「心の調整作業」として、相手に「仕返し」されることもあります(「独立器官」148頁)。「ドライブ・マイ・カー」でこれらは「病のようなもの」(69頁)として言及されています。

日常と非日常・現実と夢・輪廻転生・「分裂」

 6つの物語に共通するもう1つのテーマは、日常と非日常、及び現実と夢という対立軸です。これは先程とりあげた「変性意識状態」と関係しています。

 宮台真司によると、「ハレ」(非日常)と「ケ」(日常)、という二項図式のうち、「ハレ」が「変性意識状態」と関連します。この短編集では、「ハレ」と「ケ」の時間が何度も入れ替わります。

 人間集団は共同生活を行う上で、その秩序を乱す恐れがある要素(性・暴力など)や、当人が感じたくないことなどを抑圧します。「自己を二つに切り裂かれ」、「自己分裂」するわけです(「イエスタデイ」88頁・「独立器官」144頁)。これが「ケ」、日常の時間です。一方、フロイトの文脈に従えば、これら無意識へ抑圧された「欲動」は、夢などの形の借りて回帰します。

 「ハレ」の時間、非日常において体験される、抑圧の一時的解消、及びそれによって得られる快感。そうして人は「変性意識状態」に入ります。

 従って「ハレ」、非日常の時間において、「ここ」と「ここではないどこか」の「分裂」は解消されます。当人には世界の複雑さなど視界に入りません。「自我は消えさり、宇宙との合一は楽々として成り、」「エントゥシアスモス(神に充たされること・憑霊)とエクスタシス(外に出ること・脱自)」を体験します(三島由紀夫「暁の寺」)。テクストに「前世の話」や「生まれ変わり」、仏教に関係する単語が現れるのはこのためです。非日常の体験とは、私ではない私への擬似的な生まれ変わりなのです。

 村上春樹の神秘主義的な傾向に対し、よく思わない批評もあるようですが、恋愛を突き詰めて考える時、我々は否応なく、神秘主義にたどり着いてしまうのです。

 ただし非日常とは恐ろしいものでもあります。日常性の喪失とは共同生活を行う社会との断絶を意味するからです。「日常の規則性」(「独立器官」161頁)は、それから私たちを守ってくれるものです。

「自分以外のものになれると嬉しいですか?」
「また元に戻れるとわかっていればね」

「ドライブ・マイ・カー」(文庫版41頁)

 これは後半の「シェエラザード」「木野」におけるテーマの暗示とも言えます。

「ニーベルングの指環」作品群

 これらの短編、特に「木野」と「女のいない男たち」は、ワーグナー「ニーベルングの指環」と三島由紀夫「豊饒の海」を典拠にしています。「豊饒の海」もまた、「ニーベルングの指環」を典拠とする作品です。

 さて、fufufufujitaniさんが上の記事で指摘されている通り、三島由紀夫「豊饒の海」は、コンラッドの「闇の奥」も典拠の一つにしています。この「闇の奥」と「豊饒の海」、そして短編集「女のいない男たち」は、「ニーベルングの指環作品群」に含まれます。

 村上春樹は初期の「羊をめぐる冒険」の頃から一貫して「ニーベルングの指環」「闇の奥」「豊饒の海」を意識し続けています。「多崎つくる」ではご丁寧に、「ワーグナーの指環」という単語を書いてくれています。

 「豊饒の海」にて、転生する主人公たちは左の脇腹に「昴の星」のような三つの黒子を持っています。
 「木野」にて、「火傷の女」の煙草でつけられた痣は「冬の星座」(文庫版247頁)という形容がなされます。

 250頁には「女の目の奧には、深い欲望の光のようなものがあった」とあります。これは「闇の奥」の暗示です。
 なおこれは「真っ暗な抗道のずっと奧に見えるランタンの灯」と形容されます。恐らく漱石の「坑夫」です。
 fujitaniさん曰く、「坑夫」は二項対立を解消する物語です。木野と「火傷の女」の同衾はいわば「ここ」と「ここではないどこか」という対立軸の解消です。

 「木野」に登場する三匹の蛇は、「ニーベルングの指環」に頻発する「三」と対応しています。そして蛇とはジークフリートに倒されるファフナーのことです。そのうち二回は、「柳の木」の下で発見するのですが、これはユグドラシル、つまり世界樹です。世界の崩壊を防ぎ、維持する存在です。「ニーベルングの指環」にも登場します。

 木野が葉書に書いた「ときどき自分が半分ほど透明になった気がします」(269頁)とは、「豊饒の海」の安永透のこと。「色彩を持たない多崎つくる」ということです。

 271頁のノックの音は心音の象徴。「闇の奥」Heart of Darkness を正しく訳すと「闇の心臓」(fufufufujitaniさんの記事参照)。ファフナーの心臓のことです。

 「月の裏側」(272頁)とは「豊饒の海」のことです。三島はこの題名について「月の海の一つのラテン名なる Mare Foecunditatis の邦訳である」(「春の雪」註釈)としています。いかにも「豊饒」なイメージを漂わせるそれは、いざたどり着いてみれば、「記憶もなければ何もないところ」(「天人五衰」)だった。木野にとってこのホテルの一室は、そのような場所だったということです。

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