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「坑夫」あらすじ解説【夏目漱石】

村上春樹の小説読んでいて、「なんだ、また地下に潜るのかよ」と、うっかり悪口を言ってしまった時、絶対に後ろを振り返ってはいけません。あなたの背後には夏目漱石が立っています。不機嫌な顔をしています。目が合うと死にます。

あらすじVer.1

家出をした若い男性がポン引きに勧誘されて鉱山に連れてゆかれます。地下潜入を体験してみたのですが、翌日健康検査に引っかかって坑夫になるのは断念、やむなく帳簿係として5ヶ月勤務して東京に帰ります。(あらすじ終)

単純な話です。漱石得意の冒頭集約はありません。鏡像構造は薄くあります。実は他人の体験談が元になっています。新聞の穴埋めのために急遽書かれました。文章は明らかに凝っていません。非常に軽く書かれています。でも中身の闇の奥は深いです。なぜってこの鉱山は、「足尾銅山」だからです。地名は明記されていませんが、作中葬式のことを「ジャンボー」と呼んでいます。栃木弁です。鉱山の周りは禿山です。
本作(1908年)の7年前の1901年、田中正造が天皇に直訴をしています。大騒ぎになりました。だから北関東の鉱山といえば足尾だと読者は皆理解できたはずです。

あらすじVer.2

五日間の記録です。

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初日:二人の女性の板挟みになって家出したボンボンの青年が松林を歩いていると、ポン引きに声を掛けられます。坑夫に誘われます。自殺しようと思っていたので、最下級の職業でもよしと考えます。
それでポン引きといっしょに鉱山に向かいます。道中、赤毛布を体に巻いた男と小僧を勧誘します。いずれも大変貧乏にして無学です。おそらく両方みなしごです。そういう人間がゆく所なのです。山中の牛小屋のような臭い家で一泊します。

二日目:鉱山に到着、飯場頭(はんばがしら)に引き渡されますが、頭だけあって常識人で、主人公が坑夫になることを制止します。教育受けた人がやることじゃない。書生さんはたいてい逃げ出す。死人が出る苦しい仕事だ。儲かるわけでもない。帰りの旅費は出してやるから帰りなさい。凄く良い人ですね。でも主人公は帰りたくありません。居座ります。食事は壁土のような南京米、布団は南京虫だらけの劣悪な環境です。病人も居ますが誰も看病していません。死を待つのみです。

三日目:体験潜入で「初さん」という人に案内してもらいます。初めての坑道だから初さん、実に安易なネーミングです。一生懸命ついてゆき、最下層に到着します。疲れてヘバります。ヘバったのを見て初さんは主人公をしばらく放置して遊びにゆきます。心気朦朧とする主人公、そのまま死にそうですが気力低下の底で突如反転して気合が蘇ります。初さんといっしょに今度は登りです。ガッツを出して梯子を登ります。気力向上の途中で気が焦りすぎてまたもや突如反転して死にたくなります。生死反転連続ドラマです。あやうく梯子から手を離して身投げする直前で、どうせ死ぬなら華厳の滝で派手に死にたくなります。変な見栄で踏みとどまります。見栄も案外役に立つのです。
しかし初さんから遅れます。初さんは不親切です。置いてけぼりにされます。地下で困ってウロウロしていると安さんという人物に出会います。話してみると教育のある人です。飯場頭同様、脱出を勧めてきます。「学問のあるものが坑夫になるのは日本の損だ」。凄い人です。主人公安心します。安心できるから安さん、これまた安易なネーミングです。
ともかく安さんに連れられて地上に戻れます。飯場頭には再度本当にやる気か聞かれます。やると答えます。

四日目:念の為病院で健康診断です。あっさり落ちます。気管支炎です。肺炎になる可能性あります。空気の悪い坑道は無論無理です。絶望します。花の色を見ても、娘さんを見ても、なんにも心が動きません。無の境地です。飯場頭に相談すると、考えてみる、明日又来いと言われます。

五日目以降:飯場頭に帳簿係を周旋されます。受けます。安月給ですが、五ヶ月働いてお金を貯めて東京に帰りました。(あらすじ終)

主人公の家出の原因は女性二人の板挟みです。最終的に主人公は絶望して、飯場頭の娘さんを見てもなんにも反応しなくなっている自分に気づきます。つまり主人公は絶望はしましたが、おかげで家出の原因は解決できたのです。だから東京に帰れます。板挟みも苦ではなくなります。つまり本作は、二項対立解消物語なのです。

二項対立解消物語

主人公が板挟みになっていたのは艶子と澄江です。艶子は、色っぽいという意味です。しかし本作では大人しい女性です。澄江は清純そうな名前です。しかし本作では主人公を誘惑する悪女です。つまり名前と属性が逆になっています。

一方足尾鉱山では、初めて坑道にゆくときには初さんが登場し、安さんに出会って安心します。名前と属性が一致しています。つまりここはねじれを解消する場所です。世間ではねじれていても、ここではねじれていない。だから二項対立が解消できる。ひどい場所ですが、良いところもあるのです。

坑道で主人公は生死反転連続ドラマを体験します。死にそうになったら急に生きる意欲がわき、頑張っていると突然死にたくなる。行ったり来たりで忙しいのですが、安さんに出会ってとりあえず落ち着き、気管支炎の宣告受けて完全に落ち着きます。もしや悪化して肺炎になって死ぬのでは。それまでは生死は自分の意志だと思っていました。宣告受けてはっきりしたのは、生死はいずれもいただくもので、個人の所有物ではなかったのです。そして忙しかった生死の二項対立が、艶子と澄江の二項対立同様解決します。

上で鏡像構造はほとんどないと書きましたが、実はわずかに残存しています。三つ発見しました。まず初日にポン引きと饅頭早食い競争のようなものをします。五日目以降以降主人公は、子供に菓子を買ってあげます。対になっています。主人公なりに成長しているのです。

二つ目は同じく初日、電車の中で「強盗と贋金づくりどっちが罪が重い」という話をしているのを聞きます。五日目以降主人公は乱暴者たちの帳簿係になりますが、いじめられたりせず良好な関係になります。

もう一つ、二日目に坑夫たちが死後の世界について会話しています。獣のような獰猛な連中なのですが、真面目に顔を固くして死んだ先を考えます。四日目に主人公は気管支炎の診断受けて死の覚悟をします。三日目に生死について連続ドラマを体験したからこそ、真摯に状況を受け止められたのだと思います。

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事実と虚構の境界

「伊豆の踊子」でも少し触れましたが、

https://note.com/fufufufujitani/n/n6b4f1f83ccc5

この作品も虚実皮膜、つまり事実と虚構の境界にある作品です。ここが本作最大の工夫です。
原案は間違いなく体験談です。ですが原案の正確さも、漱石がどう反映させているかもわかりません。わかるのは本作内部に小説否定のセリフがあることです。

初日から小説否定の文章があります。「小説家が性格を書いて得意がるが、性格なんてまとまったものはない」。今風に言い換えますと「キャラは創造したもので、存在はしない。個人の性格はコロコロ変動する」

二日目には「この一篇の「坑夫」そのものが、まとまりのつかないものを事実だけ記している。小説ほどは面白くない、そのかわり無脚色の分だけ神秘的である」とあります。

そして最後には「自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る」で本作は終わります。本作は無論小説です。体験談が元になってもやっぱり小説です。これが小説でないならば「吾輩は猫である」も小説になりません。でも小説ではないと小説内で言い張る。

漱石の意図は、これが完全に事実であると思っても困る(なぜなら今後の解決策を示しているから)が、完全に創作であると思っても困る(なぜなら現場の状況をある程度緻密に聞き取って書いているから)、だと思われます。実際解決策を書いています。主人公は坑道にもぐる体験をした上で、帳簿係になりました。そして坑夫との良好な関係を築きました。漱石の考える、足尾銅山鉱毒事件の解決策はこれです。本作には経営者古河一族も渡良瀬川流域の農民の苦しみも描かれていませんが、それでも真摯に社会問題に取り組んでいます。

国策会社

なぜ農地に被害を出しながらも足尾銅山は閉鎖できなかったか。日清日露の戦争中だからです。鉱物資源の少ない国が戦争していて、鉱山を閉鎖するわけはありません。足尾の開発は渋沢栄一の肝いりですすめられた国策です。経営者の古河財閥だって苦しみながらやっています。数年前に奥さんが公害事件の集会にお忍びで出席して、あまりのショックに投身自殺しているくらいです。でも、国家存亡の時ですのでやめられません。
では農村は荒廃してよいのか。良い訳はありません。田中正造がやむを得ず直訴したくらいです。貧乏国家はつらいですね。この二項対立は考えるだけで苦しいです。
漱石の提案がこの作品です。二項対立に囚われるな。まずは現場に行け。現場に行って穴にもぐれ。その上で帳簿係、すなわち経営をやれ。現場の労働者の惨状を体験しろ。それを解決せずに鉱毒事件の解決は不可能だ。

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漱石はイギリスに留学していますから、工業力が国家の基礎であることは承知しています。同時に農村の扱いが非道であることも認識しています。おそらく識者たちは二派にわかれて議論していたはずです。今でもそうなるでしょう。そこで現場体験記を発表した漱石はたいしたものです。議論のための議論に陥らない。

「二項対立」という概念で考えるところは思想家風ですが、現場の描写は良い意味で文学的ですし、困っている人々に対する同情心を持てるところは、人物としても一流ですね。

余談

以下余談です。森高千里の「渡良瀬橋」は、私は足尾鉱毒事件を歌ったものだと思っています。足利市は被害が甚大でした。

本人はなにも説明していませんが、主人公の女性は栃木の大地母神だと思っています。森高は熊本育ちですから、水俣のことはよく知っているはずですし。もしかして夏目漱石があの世から「渡良瀬橋」をプッシュして、それで名作としてよく売れたのかもしれません。非合理的な妄想ですが。
後世、誰かフクイチを歌ってくれるのでしょうか。誰か歌って欲しいと思っています。



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