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評価してほしいことは何か、そもそも評価してほしいのか

1学期が終わり、終業式を済ませて子どもたちが帰宅した。

小学校は通知表の持ち帰りがなかった。
今年度から前後期制の通知表システムになったようで、おそらく10月前後になるようだ。

内心、ほっとした。
というのも、何と言って子どもから受け取り、何と言って見るべきかがわからないからだ。

子どもの通う小学校は観点別の3段階評価(◎、○、△)と所見が記載されていた。(昨年度のもの)

昨年度は1年生でもあったからその性質上、◎が多くつき、○がある部分は「へこんでいる部分」として見えた印象がある。

「へこんでいる部分」を可視化するための装置なのか。
そうではないはずなのに、そう見えてしまうのはなぜなのか。

通知表、やめる?やめない?

近年、茅ヶ崎市立香川小学校など、通知表をやめた学校が取り上げられることがある。

伊那小学校は60年以上通知表がないという。

こういう記事が出てくると、通知表は法的な根拠がないものであり、発行は義務ではないとか、教員の業務軽減でどう扱うかとか、でも保護者は欲しがっているからどう折り合いをつけるかとかという議論になる。

学びの個別最適化、では評価は?

一方、こちらも数年前から「学びの個別最適化」というキーワードが登場し、時を同じくし自由進度学習、などの実践報告も増えてきている。

学校教育においては主に「学習進度」や「学習方略」の「個別最適化」の文脈で登場することの多いこの言葉だ。
目指すところは、「学習内容」や「学習するか否か」の「個別最適化」なのかなと思うところもある。

学習それ自体がドラスティックにこの方向に舵を切るのだとしたら、もとい、そうした学習環境を実現している教育環境があるのだとしたら、評価も「個別最適化」していくのが望ましいだろう。

それは「どのように評価するか」「どうやって評価するか」という評価の枠組みの表層の議論でなく、「評価をするかどうか」「誰が評価をするか」といった評価のあり方の根本を問うていく営みであったらより良い。

ここまで総括的評価の意味で「評価」の語を用いたが、形成的評価としてもこの考えを援用することができるはずだ。

仲間の授業を継続して参観したこの数ヶ月で、授業者の見立てによる迂闊な評価の危うさを痛感した。
教師が全てを把握して適切に評価をするのは困難である。

と、また長々と書いてあちこちに行ったが、とどのつまり
「本人や保護者が評価してほしい観点で評価される通知表があったらいいよね」
ということと、
「そんなもの本人にしか作れるわけないよね」
ということを感じた1学期最終日。


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