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無力と鈍感 - 最近何をしたか 3/30-3/20

無力と鈍感

自分の無力さを感じる。誰でもそういうことはあるかもしれない。ある程度しか知らない人間にしても、自分の価値観に照らし合わせて痛い思いをしていた場合、どうにかしたいと思うもの。しかし他人にはそこまで踏み込めないし、その価値観が正しいとも限らない。だから言葉を重ねてみる。またそれが自分に返ってきたりするので頭の中はずっと曇っている。何が正しいかは分からない、だが言葉は重ねていて、そしてどうにかしてあげたい。その苦しさ。でも無理だ。延々と続く堂々巡り、何を欲しているのか即座に分かればいいのだけれど、それならコミュニケーションの意味もない。結局は言葉を選びつつ言葉を重ね、探り開放してゆければいいね。とか、それくらいしか思いつかないオレは馬鹿で無力な人間だ。偉そうにここに言葉を書いている場合ではないのだろう。でもそれもやめられない。相談されたわけじゃないけど、どうみてもその告白は相談だ。そういうことがある。その度に同じように自分が負のスパイラルへ陥ってしまう。この弱さ、この鈍感さ、この無力。である。
思うのだ。今まで経験的にもマイコンからパソコンへ、パソコン通信などのBBSからインターネットへとメディアやコミュニケーションも進化していて、私はそういう言葉を選んで重ねるというのは文字でのコミュニケーションにとってとても重要だと思っていた。だから自己否定にもなってしまうようだがもう白旗だ。気づいてしまった、より円滑にコミュニケーションするにはやはり対面のコミュニケーションが必要だと。それを認めざるを得ない。これまでは時間や回数、様々なことに敏感になれるとすれば文字などのものでも変わらぬコミュニケーションが取れると信じていた。しかし対面にはどうしてもそれらを超越するものがある。表情は雄弁に語るなどと文字のコミュニケーションで認めたりもしていた。しかし心底では上記のように時間をかけたり回数を重ねることにより同等のコミュニケーションができると思っていた。
そして元に戻ってしまう。結局は無力だったのだ。いや、無力ではなかったかもしれない。しかし絶対的な壁がそこにはあった。それを気づかない馬鹿だと知ったことが大きい。多分誰でも知っていることだろうが、私はなぜこんなに鈍感なのだろう。なぜ今まで気づかなかったのか、気づいたのが今なのか、それは不思議だし馬鹿としか言いようがない。気づかず助けられず救えないこの悪夢。


キラビリパンワー

キラキラしたりビリビリしたりする、それは日常のこころの動き、普段からの積み重ね。ムキムキしたりパンパン撃ったりには程遠いけど。メソメソしたりワーワー言ったりもできる。それらを感じることができるこの世界は素晴らしい。だけどたまには時を止めようか。止められないのなら一緒に止まろう。


どこにでもないうた

流れるようなフロウ、歌うように奏でるように、ポエトリーリーディングのように感じ伝えられる。その本質はリリック、小さい彼女はとても大きな詩人だから。もちろんトラックも素晴らしく、チルアウトのようでもあり、世界のようでもある。それが耳の中から頭の中にやってきて眠ることもてきるんだ。寝る薬は飲むけれど。


客観と主観、甘いもの

シがいい味、そのシはどのシなのか分からない。客観的に見るとそうだ。自分のものだから主観はある、だが書きたくて書いているが、誰かに読んでほしくて書いている。メタ的議論のようになってしまうが、体から甘いものはしみ出してくるよね?そうだよね?


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