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お酒の頃


お酒を飲んでいた。人が言うには浴びるように。そんなことはないけどさ。ずっと考えていた。なぜ飲むのだろう。最初は何だろう、大人かな。大人への願望。タバコもそうだ。だけど肉体的問題で大人の視点をもってタバコに見切りをつけたその後にやってきた。大きなうねり。いや、考えるとそうでもなかったな。幼いころだが忘れもしない中体連の日、自販機で缶チューハイを買ってみた。口当たりはひどくまずく、その後には体が少し熱くなり浮いたような気がした。白昼堂々の商店街の駐車場、今思うと何をしてるんだろうとも思う。その時はタバコとも被ってたな。だからそれは大きなうねりではなかった。だけどもっと本格的なのは高校生の終わり頃、タバコを飲むのはもう止めていた。その時は友達の家の友達の部屋で友達三人と多分ビールを一ケース開けた。友達の親も黙認してくれたが、帰りに礼というか挨拶をしなかったので怒られた。反省はしたし今でも引きずってる。その時は最高で肉体はもうついてきていた。大人の扉を開けたのか、それとも単に抑制剤としての効能か、だとしてもそこが始まりだったかもね。



次はもう大学のとき。大学には行かずふらふらしてた。バイトして遊んで飲む。飲むのは半分は家だった。そしてブラックニッカクリアブレンドが好きだった。それ以外にもIWハーパー、フォアローゼス、ジムビーム、ジャックダニエルとかを飲んでいた。バーボンが多かった。当時は洋酒はまだそこそこ高く、それを毎日飲むのは無理なので発売されたばかりのブラックニッカクリアブレンドを飲んでいた。しかもおいしい。好きだった。ウイスキーを好んでたのは幼い頃の記憶に関係するのかな、とも思う。共働きの両親は子供を親戚に預けていて、保育園や幼稚園が終わると親戚のもう高校生以上だったお姉ちゃんが迎えに来てくれた。それより上だったお兄ちゃんも二人いて、上のお兄ちゃんは大学生で下のお兄ちゃんは就職していた。そしておばさんは快活で、おじさんは夕方仕事から帰るとジョニーウォーカーを飲んでいた。棚には赤ラベルと黒ラベルが置いてあって普段は赤ラベルを飲んでいた。ジョニ赤、ジョニ黒と知るのは随分後のことだけど。それにスコッチだから違いはあるね。でもそれもあって高校の修学旅行の時にはお土産に免税店でカティサークを買って帰った。父親はほぼ下戸なんだけど。あー脱線。


大学では酒も堕落も毎日の繰り返し。友達が家でパソコンゲームを徹夜でしている時も横で飲んで話してた。話して話して飲んで飲んで話して話して酔って酔って。それがよかった。時々ウイスキーを一本空けるときもあった。ある時は友達がトイレに行ってるのに気づかず、彼がセーブしてないゲームの電源を落として一日口をきいてくれなかった。その日彼が夜通しやったゲームはセーブしてないまま消えた。そんなあふれるでたらめな毎日を繰り返してた。お酒はウイスキーだったけど何でも飲んだ。先ず焼酎は芋麦米蕎麦、何でも飲んだけど焼酎はやっぱり芋が好きだった。ビールなんて水みたいだし日本酒やワインなどの醸造酒は悪酔いするという人もいたけど、そんなこともなく焼酎とかを飲んだあとに締めとかで飲んでた。大学の近くのお店にもよく行った。そこは行ってた学部の人がバイトしているような店で、その学部関係の人間が多く、ターゲットの多くもその学部の学生だった。お店ではショットグラスで飲んで大学に行かないのに大学の友達と大学、いやそこで学ぶはずのこと、自分たちに今なにがあるのかとか、女性の話や車の話、そんなことを話してた。それだとただの青春の断片って感じだけどそんなんじゃなかったな。目の前に待っているのは破滅。スピードで置いてけぼりでギリギリで悪辣で後退で偽善で拘束で偽善まみれだった。だんだんとそれらに侵食されていた。毎日というわけではないような記憶だけどほぼ毎日だったかもしれない。


大学が終わりTownsOSと草の根BBSとテレホーダイとWindows MMEとダイヤルアップの時代になった。その二つの事柄で世界は広がった。お酒も似たようなものだ。大学のバイト時代の友人が仕事帰りによく飲みに誘ってくれた。かなり頻繁に誘ってくれ、家で飲むこともあった。そうこうしていたら近くに看板だけがある謎の店ができた。外から見る分にはマンションの一階の小さい店舗。どうみても飲み屋さんだとは思っていた。しかし食事でも一人ではお店に入れない人間なので入るのは無理だった。いやお酒だ、ある日お酒を飲めば無敵だったということに気づいた。抑制剤として効能が発揮される。そしてついにその店に入ってみる。そこはスナックでもなく小料理屋でもなく、とにかくお昼には仕事を持っている美人のママのやっている彼女の気ままな店だった。客にいうことはいう。だが美人。ついにそこに入り、ママ目当てで来ている地元の自分より年配の人たちに迎えられた。ママ目当てと書いたが、彼らは友人らと来て話を楽しんだり、そこで会う人々と話したり、ママと話す目的もあった。そこに違和感なく迎え入れられて、なぜが初日に気前のいい人に奢ってもらった。別に下品な話をするわけでもなく、皆楽しく飲んでいた。基本的にみな紳士、それは今でもとても思う。それはママの存在があるからだろう。その経験は今でも得難いものだったと思っている。また、ママの作る色々な料理も魅力だった。本職ではないのになかなかおいしいものばかり。そこにはよく行くようになった。近いしね。そういうこともあり、家、友人、そのお店。そのローテーションで相変わらず酒に溺れる。その理由は何だったのだろう。家、夜だからか。友人、友人だからか。お店、知り合った人たちとの会話とママの料理か。しかしそれも終わる時は来る。引っ越すことになった。退去日を決め、退去するのだが相変わらずのダメ人間。退去できずに数日お金を払って延長する。なんだそれ。でもその引っ越しで環境は変わった。


新居は都市の中心部の地下鉄の駅から歩いてすぐ、昔の中心部だけど今は場末感満載の町だった。大きな道路を挟んで地下鉄の駅側は今も栄えている街、こっちは古ぼけた滲んだ町だった。だがその場所を気に入っていた。町のあちこちに歴史を感じた。古い歴史ではないが、今はもうない町の佇まい、だがそれは確実にあった。その名残があちこちに残っていてそれが郷愁へと誘う。時代を越えて生きているような気になる。そんな町の部屋で相変わらず飲む。夕方から始まり日が変わる前には気絶してた。毎日毎日ね。外に飲みに出ることもあったけど九割は家だった。夕方から500mlの缶チューハイを二本飲み始まる。それから焼酎、本格焼酎だが1.8か2Lのパックで買っていた。それを生で飲むが、胃の調子を崩してからはサイダーで割って飲んでた。映画や海外ドラマを見ながら飲んだ。必要以上の感情に襲われたりしながら楽しんでいたが、物語を途中まで見ても次の日は見たところの後半を忘れている。だから毎日重複して見る部分もあり、無駄だった。そして見ているうちにまた酔いが回る。無駄だな。また、時には音楽を聞き体が動くこともあった。止まらない感情と衝動、そういう毎日。飲む量が五合を越えてくるとチルアウトの時間。最後の一杯を飲み、音楽を聞きながらトマトのリキュールを何杯か飲む。そうこうしていたら気絶タイム。終わりだった。一日五合は必ず飲むので焼酎の紙パックが山のように増える、畳んでも畳んでも増えてゆく。そんな感じで自分の中の何かが折り重なっているのも分かってた。なぜ飲むのか、それは飲まずにはいられないからだ。精神依存や肉体依存はなかったと思うし年に一二度何日か飲むのをやめる実験とかもしてた。眠れないのはあったがそれもクリアできる。ではなせ飲まずにはいられなかったのか。それはずっとある孤独なのかも。人と飲んでいてもどこか独りでいる。その輪の中に入っていても、同調し楽しんでいても、どこかで、どこか離れた位置から輪の中でただ独り色の抜けた自分を見ている。そんな感じ。だからダメだった。飲まずにはいられないし、飲んだってダメなのに。それも分かっていたが飲まずにはいられないのだ。これを依存というのだろうが、依存というと止められないイメージがあるがある日を境に一滴も飲まなくなる。


お酒を飲むのが好きなのもある、飲んだら楽しいし抑制剤としての効用も嬉しい。友と飲めばその時は楽しいし、お酒があれば抑制剤として話すのにも有利だ。次の日はえも言われぬ自己嫌悪でいっぱいだったが、飲めばバリアだらけの垣根を越えることもできる。そこで芽生えた友人関係もあったな。負の面ももちろんあるが、不眠のオレには渡りに船だった。途中で心療内科とかに行って導入剤と安定剤処方してもらってたけど禁忌であろうが酒と飲んでた。それでおかしくなったことはないけど禁忌は禁忌。何をやってるのか。それは分かっていたけど分かってはいなかったのかな。しかしある日から一滴も飲まなくなる。体調を崩した。簡単にいうと死の淵。意識がなくなることは一度もなく、よくある調子悪い状態。しかし嫌だったが生まれて初めて救急車には乗った。そしてICU、父親が入っていたICUと今のICUは違うんだなと思った。調子悪い状態で病院に行ったが、処置の薬の問題なのかそれからは頭がはっきりしない。夢うつつのようだった。ICUでも寝てるばかり、その後回復して一般病棟に移ったがあまり変わらない、はっきりしていない。長期間外で過ごすことはないので、よく分からないのもある。家族と数少ない友人が見舞いにきたりして。両者口をそろえていうのは、死にかけていたということ。医者も同様のことをいう。だが、そんな感覚はまったくなかった。しかしその日から一滴も飲んでいない。医者によると一般的にはそれも難しいらしく、その後の通院時には毎回何度も飲酒をしていないか聞かれた。別にもう飲酒をする気はなかったし、その日から一滴すら飲まなくてもまったく苦でもなかったので、そのしつこさを不思議に感じていた。医者のいうには死ぬ、といくら言っても、分かってても止められない人が多いのだとか。止めようとしても飲み友達の軽い誘いですぐに元に戻るのだとか。そして死んでゆくのだそうだ。そんなことを聞いた。友人たちは飲みには誘ってくれる。しかし、お酒は絶対に勧めない。入院時にその先の死を見たかららしい。いや生きてるけどね。飲めないのは少し淋しい気はする。お酒自体も好きだったから。でもまあ気になることはない。元々何もない人間だ。これから自分ができることをして生きてゆきたい。そんな感じ。そんな時間。よくはないが悪くもなかった。それだけの事をした結果だし。医者にはあたり前ですぐ死ぬとは言われる。それも含めて仕方ない、それを選んだのだから。だから毎日をどうするか、とか、そっちを考えて過ごしてゆきたいとは思う。それでも大きくは変わらず惰性で生きているのだけどね。




あまり意味のないことを書いているのかもしれません。書く必要があったのか、載せる必要があったのか。私的ワールドを晒す必要は、意味は、そんなものは何もない気がする。単なるエッセイ的なものだけど意味はあるのか。なくてもいいのだろうが、疑問は止まらない。


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