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日本人のブラインド - 最近何をしたか 11/26-12/6

日本人のブランド志向

街を歩いて感じることがある、日本人のブランド志向。手にしてみると大したことないものに大金を払い、その名前、ブランドという事実だけに満足している。機能や性能を知らず美に無頓着、そのブランドだからいいだろうという盲目の信頼感。そして偽物の横行。一部の人はそれを知っていて手を下す愚かさ。何を求めているか分かっていないふり。そんな風に見える。

もちろんいいものはいい、しかし知れば疑問符が浮かぶものもある。例えばノースフェイスというブランド、あの品質をその値段で買うのもどうなんだろうと感じる。品質が突き抜けているわけでもなく、デザインが特に素晴らしいわけでもない。もちろん中には機能美など含むいいデザインもあるだろう、しかし基本的にあのロゴマークが付いていなければ、いや、付いていたとしても、基本的にはどこにでもある普通の服だ。

さらに私が思う疑問はそれをアウトドアという視点で見ても同様に感じる。そんなことを言おうとすれば、そりゃそうだ、ノースフェイスの服はアウトドアてはなく単なる洋服だからね、と言うのだろうか。そういう知ったかぶりの擁護には飽き飽きしてるんだ。現実にはアウトドア風の服だとしても、実際にアウトドアブランドでその機能性、特殊性に対しての思いから高い値段でも買っている人もいる。特に同ブランドの海外展開製品を見た場合、アウトドア志向への期待は大きいものと思われる。

もちろんそのブランドは例えに過ぎない。

そこに存在しないのは自己だ。ブランドへの好みや信頼というのは分かる、デザインもそうだが自分の個性や本質に沿っているという理由でブランドに親和性を感じ選ぶということもあるだろう。しかし私が感じているのはそういうものではなく、そのブランドのアイデンティティではなないシンボルだけに対しての価値なのだ。そのブランドであればよく、その製品に対する自己の要求はそれだけというような。機能性や性能、デザインの優位性などで選ぶのではなく、ただ名の通っているブランドだからで選ぶ人が多いように思える。

失い続けるマーク

もう一つの問題はブランドの偽物を偽物と分かっていて購入する人間だ。それが日本人に多いかは分からない。しかし最近はそれを感じている。さまざまなブランドの偽物は出回っているだろうが、ここ何年か、例えば最近特に思うのはモンクレールの氾濫だ。ダウンだから基本的に高価なのはあたりまえで、私もそれなりに持っているがモンクレールほど高くはなくてもその半分、よくて三分の一程度はするし、安いものでもない。最近はUNIQLOのような安いダウンもあるし、それにも満足もするが、それらは個別に品質もアイデンティティも違い、自分の持っている幅のうちのひとつである。

私は随分前に、まだ誰もモンクレールというブランドを着てない頃に、好きなサッカー選手が着ていたのでミーハー的な興味がわいた。調べてみれば登山クオリティの性能を持つダウンでよさそうだが、モンクレールの場合は持っている人間から言わせれば暑いという性能、そして私には少しどころか高いので諦めたが、今ではそれもよかったと思っている。無理することはないしね。でもブランド自体は登山クオリティにも関わらず見た目もいい。だから人気があるのも分かる。

しかし街を歩かなくても最近はコンビニでもスーパーでも疑問符がつくくらいの確率で着ている人を見る。ほとんどの場合ダウンジャケットだ。どう見ても他のものと釣り合わない、そのダウンジャケット以外に対してジャケットだけが浮いている人も多い。要するに似合っていないというレベルではない人が着ている。そんなのどうでもいいよ、色眼鏡で見てるだけでしょ、と思われるかもしれない。だが、一人二人なら私もそんなことは思わないが、そういう人を大量に見る。そこで何年か前にちょっと調べてみたらいたるところで激安で売っていた。

それは偽物とは書いていないがどう見ても偽物で、それを分かっていて購入しているのだな、と思う。それとも善良な販売者が正規業者の一、二割の価格で売ってくれている、と思ってハッピーに買っている人はいるのだろうか、疑問だ。そうだとすれば性善天国だ。孟子もそうだろうと喜ぶね。だが私は悪の思考に支配された人間、いい人間もたくさんいるとは思う、しかし所詮汚い世界だ。しかもその事柄をハッピーな視点で見られるのを性善とも思わない。今回あらためて調べてみれば、今は堂々とスーパーコピー品として売っているようだ。多分海外サイトという問題だろうが、完全日本語対応で手広くやっている。もう恥も外聞もなく、犯罪行為である。

日本人のブラインド

別に日本人だけではないのだろうが、私はここにいてそう感じ、書いてしまう。物事の本質ではなく作り上げられたマークを拝んでいるだけのように感じる。そのマークさえあればどうでもいいのだ。権威を笠に着ているようなものだ。それはテレビの見ない私からしたら、肩書を持つコメンテーターの言葉を思考停止のまま鵜呑みにする現在の世の中の姿にも思えてしまう。

と、同時に悪い思考の私の濁った目によって、本当は美しく綺麗な世界を歪めて見ているのだという気もしなくもない。ならば全てが裏返る。それならばいいし、そうかもしれない。分からない。私が汚れているのは私が知っている。上記のことをつらつらと思い、こうして書いていると、もしかすれば世界は思ったよりも正しいのかもしれない。そう思うと日本人のブラインドではなく私のブラインドかもしれないな。


多分よい

いつもなにかを突き破りたい。だけどやっぱり怖いから。闇雲に進むような気がしている。ふと遠くに見えていたあの夕焼けが、いつのまにか目の前に、いや、その中に。オレンジに赤につつまれているような瞬間。感じるだろう。怖かったけどよかったかもしれないね、突き破ったかどうかも分からないけどね。


イベントのこころ

世界でもクリスマスはイベントだ、もちろん現在でも宗教的な意味として厳かに行われる礼拝などの催しもあるだろう。しかしキリスト教世界でも、それ以外の世界でも大きなうねりとして存在するのは文化的、社会的な意味だ。家族を感じ、商業を思案し、その結果潤し、こころを満たす。その意味でも商業音楽が好きだ。クリスマスキャロルも好きだが、もっと空間を広げてそこにある音楽、それがいい。


遥かだ

見知らぬ場所に立ってみれば俯瞰する、街の風景自分のこころ。映っているのは誰なのか、何なのか、過去か未来か現在なのか、分からない。そしてその光景はめまぐるしく変わる。脳の中、現実、事柄のすべてに感じるわけではないが、現在の状況を見て多くの事柄に感じる過去や未来。遥かだ。



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