見出し画像

おいてけぼりの自由 - 最近何をしたか 5/1-5/11

おいてけぼりの自由

最近は岸田首相のマスクに関するダブルスタンダードが一部で話題だ。回りを見ていると様々な場所から発信される同調圧力によりマスクを強いられている人がいる。いや、そういう人ばかりのようにも見える。もちろんマスクの効果を喜んで信じてしている人もいる。しかし回りの人々を見ていると何も考えず流されているだけか、社会の同調圧力により仕方なくしている人も多い。自分は不本意でも断ち切れないその社会とのしがらみはなんだろう。公共交通機関のアナウンス等の圧力、会社の通達、ご近所など人の目、指摘されるとか。それを思うと自由に過ごすことに勇気がいるという不自由な場所に住んでいる。それは自由なのか不自由なのか。

義務でもなく法に反しているわけでもない。あったとしても明確なお願い程度だろうか。それぞれ自由に選ぶ個人が尊重されるべきものではなく、同調することが尊重されるべきだ、それこそがより優しい世界ではないか、という虚実。こういう社会に住んでいる。私が一番不思議に思う問題点はマスクの害だ。吸入できる吐き出せる酸素の量が減る。苦しい。特に子供は心配だ。他にも様々な疑問はある、不潔さ、汚れとか。それでも好きにすればいいとは思う、それが自由だろう。しかし子供は選べない、言われるままにしてそれが正しいと思い込み率先している子供もいる。それは自由に選択する他社への攻撃にもなったり、陰口にもなる。そうさせている。

不潔さも含め、疑問が湧かないのも不思議だ。例えば息も苦しくなく、湿りもしないようなスカスカなウレタンマスクはマスクとしての意味を持たないと分かるはず。それを選択している人は苦しいからそうしているのだろう。それでもしていますというポーズとしてするだけならそれはただ世界に飼いならされている象徴でしかない。いや違う、マスクをしているということが目的なのだろう。でないと生きて行けず迫害されてしまう。しかしそれを選択するということは迫害してる側に加担しているのと同じだろう。この状況下でも普段マスクをしない人が、特定のマスク必須な場所などを利用するために皮肉でスカスカなウレタンマスクをするのとは違うのだ。

私は最初からずっと自由にしているが幸い回りに嫌な思いをさせられたことはない。しかしそれはそれ以前から支払っている代償があるからだ。もう元から頭のおかしい人として認知されているから誰も触ろうとしない。それだけだ。その事も含めマスクだって自分が自分でいるための普通のことだ。もちろん法律に違反しているわけじゃない。そんな私を縛るなよ。縛られたい人は勝手に縛られていろ。そこで一番思うことは自由はどこにあるのだろうか。そんな少しの不自由を許容できないのは大人でもなく日本人でもない、そんなことを言うのかな。初期の頃よく感じたマスクをしていることによる外国、外国人に対する根拠のない優位性、民度の高さ等と称すようなそれこそが不自由で下品だな。その外国にはもう置いてゆかれてるよ。それが最初の総理のダブルスタンダードではないのか。



色褪せた風景

誰もが別れは経験する。それを大切だと思う人もいればそうでない人もいるだろう。淡々と過ぎてゆくだけのこともある。その頃は壊れた時間、壊れた自己、ただ色褪せた風景、まぶしくもない日差し。そういうものかもね。そう感じるしそれが見えてしまう。それは不幸なのだろうか。



永遠

大好きな小坂忠さんの歌声、曲、立ち振る舞い。こころ。病気と戦いながらも、例え手術をして間がなくてもステージに立ち続けたという話をその時々で聞いてはいたが、どれだけ壮絶かは本人じゃないと分からず、その次に接した人でないと分からない。ただ話を聞いていただけだ。だがそういうのが忠さんだと思えて仕方ない。それは歌唱から伝わってくる。魂というものはあるのだろう。それを感じる。忠さんの歌は永遠に聞き続けられるだろう。私も朽ちるまで聞き続けるから。



健忘症

すぐに忘れてしまう、この世界、その世界、あの世界のこと。満足していてももっと知りたい、知っていたはずなのに忘れてしまう、知らない世界をもっと知りたいが健忘症もつらいもの。いつも浮かんでいつも沈んでゆらゆらしている。現時点でも幸せに違いないのだろうが、まだまだ足りないんだ。新しい世界にはいつでも行く準備はできているから。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?