見出し画像

書くことについて / エッセイ

 なるべく毎日書くようにしている。この「なるべく」というところが我ながら甘いのであるが、まあ書いている。とりとめのないエッセイであったり、何らかの考察による論文調のものであったり、描写のための文章によるスケッチなどである。創作は今年の二月頃に百枚程度のものを書いた。そのときはいつになく疲弊した。書き上げるまでに一年程掛かった。推敲のために冷却期間としてトータル二ヶ月は寝かせていたが。納得出来ない描写があって、放っておいたままにしていたが、そこに取り掛かりはじめると、その数行がまるで書けず、数日間朝から晩まで書いては消し書いては消しをしていた。煮詰まってしまい、非常に感覚が狭くなってくるのを感じていた。まるで轍に沿ってしか歩めず、何かに囚われているようで非常にもどかしい毎日であった。僕はプロットを立てずに書きはじめる。立てる派と立てない派がいるが、この定義も微妙なところで、境界はなかなかあやしいが、深堀りしないでおく。場面の断片や大まかな筋、台詞などはあるが、設計図のようなものを作り込んではいないし、これらの材料も正式採用状態ではない。流れを受けて変化したり消滅したり出来るように、あえてボヤボヤとさせておく。書いているうちに筋は変わるし、何より物語のほとんどが未定であり見えていない。キャラクターや物語が自ら動きだすと言うが、あれは本当である。厳密には想像の演繹的な連鎖によるのだろうけれど、体感的には意図せずに書き手がその流れに引っ張られている。そのような時はどんどん筆が進み(実際にはタイピングであるが)、果たしてどのように物語が進むのか、その未知を書き手が楽しんでいる。そうかと思うと、忽ち粘質のぶよぶよとした透明なものに捉えられて物語は減速し、そのまま停滞してしまったり。

 僕は近代文学の美しい日本語が好きであった。美文は現実世界の美しさに迫り、あるいは内面的に超越するものであった。僕の思う美文は谷崎潤一郎のような絢爛豪華な文章ではなく、もっと平易な言葉に現れる美しさである。リズムや音韻、言葉と言葉の連なりによって滲み上がる意味に垣間見る美しさである。それは妖しく艶めいている。装飾ではない装飾。歌い上げない歌である。そういうものに心惹かれて、心を尽くして書いていた。しかし、過去に書いたものを読み返すと、それは装飾であり、歌い上げている。興醒めである。

 小説を読んでいると忽ち冷めてしまうことがある。そうなるともう読めない。そのような作品では、作者が自らの表現において悦に入っているか、読者の解釈を誘導しているか、リアリティのない創作にしか登場しないようなベタな言動をとるキャラクターが現れたりする。創作はフィクションであり作りものだが、どこまでも自然に忠実な作りものでなければならないと思う。この自然に忠実というのは、ファンタジーや奇抜な作品に見られるような、起こり得ないことを否定しているものではないのは当然である。また、作家が物語を通じて読者を誘導するジャンルやスタイルがあるのも然りである。そのような場合、重要なことは読者を完全に騙さなければならない。誰だって他人にコントロールされていると感じればいい気はしない。馬鹿にするな!となることは必至である。

 とりとめのないまま、ここまで話が流れてきた。なぜなら何も考えていないからである。アレを書こうと思うと表面的に終わらせたくない気がするし、コレを書いてやれと思うとあまり面白くなかったり。中途半端なことばかりダラダラと書いて、何となく、ああ、今日も「何か」は書いたなと、そう思いたいだけなのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?