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第七回文学フリマ札幌(2022)が終わって。

どうも。
同級生は52歳、へっぽこぼっちクリエイティブユニット「PICNICA011」のカコちゃんです。

さる2022年10月3日(日)は第七回文学フリマ札幌が開催され、おかげさまをもちまして、なんつーか、フェスティバルでエキサイティングなひとときを過ごすことができました。
そちらでも述べましたが、みなさまには、本当にありがとう。
そのときのガチャガチャしたようすは、アメブロに書きましたので、よかったらご覧くださいまし。

来場されるのは、本を読むのが好きな方ばかり。
そんなみなさんとお話をしたり、押し売りしたりしながら、なぜ私は小説を書いて、人に読んでもらおうと挑戦しているのかに思い巡らせたりするのです。「リーフレットお持ちください~」って連呼しながらも。

そして終わって、さらに思い巡らす。
ここから先は、カコちゃんの独白が延々と続きます。

「ミステリーが好きなんですけど」とは、PICNICAMERAお見立てのときによく聞いたフレーズです。
残念! ミステリーが書けるほどアタマよくない。
ミステリーを書くのは私の「お役目」ではないのです。あまり読まないし(嫌いとも違う)、できればハラハラしないで生きていきたい。
会場以外では「ライトノベル書けば?」「BL書いて儲けたらいいのに」もよく聞きます。でも、これもお役目ではない。

「なぜ小説を書くの?」

ひとつには、私がその世界を見たいからだと思います。
ほわ~っと過ごしているときに浮かぶ妄想。日々疑問に思ったり、感動したりすること。そしてなかなか決着がつかないこと。
それらを整理し、拡大・発展させ、私という観察者に提示したいんだと思う。
決着がつかないほわほわを、そのままにできない性分なのでしょう。

旅先で夜が明けていく空のグラデーションを眺めて、それを拡大させ、いつまでも見ていたいのだと思う(「思う」が多いのは、確信が持ててない証拠。ことばのケバ取りができないほどの、自信のなさの現れです)。

恋の狂気も、おいしい朝ごはんも、クサクサしながら菊水を目指すうちに、歩道橋で友だちと再会してゲラゲラ笑い合うのも。私が見てみたい。

その前提があって、新人賞に応募したり、売ったり、インターネットで公開したりしているのは、より精密で確かなものが見たいから。
意識しないで書いて、そのときは「ふっ、カンペキ」って、うまく書けたかのような錯覚に陥ったとしても、後で見て、なんじゃこりゃさっぱりわからん、と思いたくないから。
技術を身に着けたい、訓練したい、ということでしょう。

そして、ようやくその厳しい現実を知ったので、もうあんまり目指してはいないけれど、小説をはじめとする「決着がつかないほわほわを形にする」つまり、創造に没頭できるよう、小説を書くことを職業(=収入源と時間の確保)にしたかったから。

正直に、率直に言うと、小説を書く理由はそんなところにあります。

そして、そんなふうに自分を喜ばす行為が、誰かをほんのちょっとでも慰めたり、次の行動のスイッチになったりしたら、それはなんと幸福なことだろう、とも思うのです。
私が物心ついてから、本や映画や、たくさんのものに喜びを与えてもらったのと同じように。

誰かの、なにかよきものになる。なれるといいなあ、と。
普段は(あえて)意識しないようにしていますが、深い願いのひとつでもあります。

意識しないようにしているのは、そっちに気をとられると、私が見たいものが作れなくなっちゃうから。経験的に。
違うことをしない、ということ。それには自分に集中し、没頭すること。


そうすれば結果的に、誰かにとっての、一瞬の「よき」につながりやすくなる。はず。

だから今は、書くことをやめられないし、どちらかとゆーと前傾姿勢で書いたり発表したり応募したりしてる。うん、してます。ハイ。

そういえばね。
文フリが終わって、みなさんの感想や買った本についてレポートを眺めているうちに、「純文学」について解釈を示されている人がいた、のを見つけた。

うるおぼえで恐縮なのだけど、純文学とはつまり、自由文学である、とその方はおっしゃっていたと思う。少なくともカコちゃんはそう読み取った。

へえええええって思ったね。そうかも、そうかも、と。

文学フリマでもカテゴリーを自分で決めて申し込むのだけど、私は一貫して「純文学」にしてます。でも、隣り合った出店者の方やお客さまと「……で、純文学って何スかね?」という話題にもなる。よくなります。
いつも結論は出なかったのです。「エンタメではないってことスかね」と。

カコちゃんは尾崎豊じゃないから「自由って一体なんだい?」って、あんまし思わない。自由って聞くと「わーいわーい」って反応する。
つまり、純文学が自由文学なんだとしたら、私にとっては「わーいわーい」小説、というジャンルである、ってことになります。

今回の文フリで思ったこと、もういっこ。

私は第一回の文学フリマ札幌から、一貫して札幌のみ出店しているけど、第八回の札幌に出たら、次は地方(東京とか大きい会場ではなく、札幌くらいの規模)の文フリに出てみます。

なぜなら、私は札幌を舞台(あるいはテーマ)に書いているけど、それを札幌の人にプレゼンして受け入れてもらうのは、ある種の甘えなのではないか、と思い至ったからです。

今回の掌編小説シリーズPICNICAMERA(ぴくにかめら)は、白石区の菊水円形歩道橋が舞台。これをお客さまに説明しているときに、すぐに場所がわかった人と、そうでない人がいて、それぞれの表情を眺めているうちに「私は札幌に甘えすぎているのではないか」と思ったから。なんとなく。
札幌の人の記憶や体感に。

おそらく想像するに、「北海道から来た人」はひとつの価値になり得るのだろうけど、疎通が図れるかはまた違うんじゃないかな、と思ったのです。
どんな風に受け止められ、受け入れられるのか興味があるんだ。

バナナのたたき売りみたいな時間を過ごしながら、そしてその後、片付けをしながら、そんなことを考えたのでした。
ここまで読んでくださった方、どうもありがとう。ぺこり。

素馨堂/河原藍さんとこの集客装置・つば九郎先生と。背の低いのがカコちゃんちの。


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