00_メイン画

夢Ⅰ(29)

第1話:夢Ⅰ(1)はこちら

⇦夢Ⅰ(28)

☆主な登場人物☆

◢ ◤ ◣ ◥

ソリを覆う布を不規則に撫でる風が、聴覚を刺激する。
頭の下に入れた右腕を少しずらすと、ソリの床に敷かれた毛皮が、手の甲に柔らかく触れた。

 

「力の民」を追うどころか、ソリは、「力の民」から逃れるために前進していた。脇にある短剣に秘めた思いは、今でも、衰えてはいなかったが、いつからか、リックは「力の民」のことを憎しみを込め「奴ら」と呼ぶことが出来なくなっていた。
目的を持たず、完全に一人を意識する、静かな夜を過ごすのは、影の森以来だった。あの森に、戻りたいと思うことはなかったが、戻りたくないとも思わなかった。
リックは、強く目をつむり、後味の悪い夢の余韻から抜け出せないまま、じわりと込み上げる、懐かしさを噛みしめた。ソリの外に、ヌエ達はいるのだろうか。もしかしたら、いないかもしれない。
リックは、ただ広い雪原に、ひっそりと忘れられたソリを思い、また、懐かしいと思った。

 

 

ポンポン。サラサラ。
風がまた、ソリの布を外から撫でている。
まるで、それは呼び掛けのように。

 

ポンポン。

 

風が、リックの一人きりの空想に、ふとした思考を落としていく。
「ソリの外には。ヌエ達がいるはずだよ。」

 

ポンポン。

サラサラ。

 

確信にも似たその思い、「僕は一人ではない。」

 

ポンポンポン。サラ。サラサラ。

 

「今。僕は一人ではない。」体が自然と丸くなる、心に灯った温もりを逃がさないようにと。嬉しい。皆がいてくれることが、嬉しかった。

 

 

サラサラ。ソリの布の上を滑りながら、風が通り過ぎていく。
眠れそうになかった。

 

自由な左手で、床の毛皮に触れ、握りしめた。毛皮の温もりが指先に伝わってくる。リックは、ゆっくりと、体の動作を確認しながら上体を起し、薄暗いソリの中を見回した。不安はあったが、気を失って運び込まれたのだろう体は、しっかりと持ち主の思うとおりに動いてくれる。ゆっくりと休んだのだろう、眠気は全く感じていなかったし、意識を手放すと、また、あの嫌な夢を見てしまいそうだった。
リックは、ソリの中、積み分けらた荷をなぞり、後部の繋ぎ目を目指した。

 

月のない空は、月の不在を補って余りある無数の星で埋め尽くされていた。透き通った空気により映し出された雪原は、昼間よりも綺麗に白く、無防備に露になった隆起の全容を、鮮明に見渡すことが出来た。

 

吐き出す息が、凍てつく寒さに、濃く色を帯びる。
繋ぎ目と格闘した指先が、ジリジリと熱を放っている。
リックは、すぐに、ソリから少し離れた雪の上に、飛び石のように4人のヌエが丸くなっている姿を見つけた。一つ。4人から少し離れた雪の上で、ソリを背にして座っている影があった。あのシルエットは、《茶色》だろうか。彼の声が、聞きたい。《茶色》の落ち着いた、粗削りで、飾り気のない言葉が聞きたかった。

リックは、心の声に背を押されるままに、雪上に座り込むヌエの影を目指して進んだ。雪に刻まれた、大きな足跡を、意識してなぞることで、いくらか不安を和らげることが出来る気がした。脳裏には、ヌエのサークルから足を踏み出した時の記憶が蘇っていた。あの強烈な恐怖。あれは、一体何だったのだろうか。思い出すだけで、心が湿り気を帯びてくる。あの恐怖に襲われることが不安で、一歩一歩が、まるで崖先から中空へ踏み出すようで、踏み出した足が、しっかりと、地に着くまで重心を預けることはしなかった。

 

星達が見下ろす雪原で、小さな黒点が、質量をもった風を受けて、バランスを崩しながらも、もう一つのほんの少しだけ大きい黒点との距離を、ゆっくり、ゆっくりと縮めていった。

 

《茶色》は、眠っているのか。リックが近くに寄っても、気付いた素振りを見せず、両手を自然な形で両膝に落ち着けて、綺麗な姿勢を崩さず座り続けていた。《茶色》の正面、彼の体越しに、大きな絨毯の様な布が雪上に敷かれているのが見える。
絨毯かと思った布の全容が、彼の大きな体を回り込むにつれて、少しずつと見えだし、リックにもその正体が分かってきた。リックはそれを、《灰色》のテントで、一度、目にしていた。《灰色》の穏やかな、滑らかな言葉が、リックの心を通して聞こえる。

「地図です。」と。「さて。」と続く声が聞こえる気がして、リックは一時、耳を澄ました。続くはずの言葉は、ゴウと吹き抜けた風によりかき消され、雪原の彼方の闇へと吸い込まれた。

雪上に厳かに広げられた重厚な布地の「地図」は、重い風を受けても翻ることも、震えることもしなかった。ずしりとしたその「地図」は、夜空を前にして、《灰色》のテントで目にしたときよりも、はっきりとした輪郭を持って、こちらに語り掛けているように感じた。

やはり、リックの知っている「地図」とは違った。
リックの知っている「地図」は。
たしかもっと、道筋とかそういったものを指し示していたはずだ。それは、いつの記憶か。はるか遠い場所で、見たことがある気がした。

今、目の前にある「地図」は、ほんの少しずつ間隔をあけて配置された、記号で埋め尽くされていた。記号達は、互いに重なり合うことはせず、布面の上部ほど色あせて見え、よく見るとそれは、別の布片を張り付けたものだということが分かった。几帳面に、四角く切り抜かれたその布片を、リックは、どこかで、見たことがある気がした。

リックが記憶を辿るなかで、布面の最下段、《茶色》に最も近い列の端に、もっとも鮮やかな布片が目に入った。風になびく《茶色》の羽織りと、鮮やかな灰色の布片が記憶よりも早く、リックの思考に答えを捻じ込んできた。
それが何を意味しているのか。リックには、訳が分からなかったが、几帳面に四角く切り抜かれている布片達は、ヌエ達の羽織りの一部だった。

 

そして、「地図」の最下段の端に鮮やかに《灰色》の布片が、はめ込まれていた。

◤ ◣ ◥ ◗

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?