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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(5)

前話目次

(5)ドイツのピアノ

 まだ、内心では完全に怒りが収まっていないであろう絹代だが、表向きは、平常モードまで鎮まっているように見受けられる。基本的に、怒りを爆発させる人の方が切り替えも早いことは、経験上、確信していた。
 逆に、怒りを抑えつつ、ネチネチと陰湿に文句や不満を口にする人の方が、たちが悪いのだ。幸い、絹代は典型的な前者だ。まだ不平不満は解消し切っていないだろうが、松本は、彼女のことを容易に操れそうな人と判断した。なので、次のステージに話を進めることにした。
 先ずは、ピアノを褒めるのだ。

「しかし、これはまた凄いピアノですねぇ。ほぉ、Brueghel(ブリューゲル)というピアノですか。これは滅多にお目に掛かれない名器かもしれませんよ!」
 ピアノを褒められた絹代は、予想通り、見るからに機嫌が上向きになり、饒舌にピアノを買った時の思い出を話し始めた。良い兆候だ。
「このピアノはね、娘が四歳の時だから……三十五年前、あら、もうそんなに経つのね。隣町のデパートの催事場で買ったのよ。亡くなった主人が一目惚れしちゃってね、あまり聞かないメーカーだなとは思ったんだけど、聞いたらドイツ製って言うじゃない」
 ドイツ製……松本は「やっぱりか」と思った。この手のピアノは、大抵の場合、ドイツ製ということになっているのは業界の常識だ。これで、また一つ、好条件が加わった。

「なるほど、ドイツ製のピアノですか。あっ、そう言えば……そうそう、昔ドイツに住んでいた頃に、フランクフルトの楽器フェアでこのロゴを見た気がするなぁ……いやね、ハンドメイドメーカーの小さなブースなのに、すごく賑わってる所がありまして、ちょっとした話題になってたんですよ。すごく音が良いピアノがあるって噂でね。それで何となく覚えてるんです。確かこんなロゴでした! って、今思い出したんですねどね、ハハハ」
 もちろん、これは全てハッタリだ。しかし、このピアノを褒め称えると同時に、自分の経歴を良い風に詐称する目的もある。
「あら、松本さんって、あちらにお住まいだったの? すごいわねぇ。これはね、正直ちょっと高いなって思ったけど、そうそう、手造りの一点物って言ってたわ」

 ピアノは、オートメーション化に成功した日本製の大手メーカーでさえ、今でも手作業の工程が沢山残っている。逆に、手造りピアノと謳われているメーカーも、機械作業が沢山取り入れられている。「手造り」の定義にもよるが、100%手造りのピアノなんて、今の時代にはないだろう。そもそも、製材の段階で機械を使っているのだから。
 その中で、敢えて「手造り」を謳い文句にするのは、製造過程の何処かで強い拘りを持って手作業を貫いている老舗のメーカーか、印象操作をしたいだけか、どちらかでしかない。
 このピアノが「手造り」と説明されたのは、間違いなく後者だろう。良いピアノであると思わせる為、必死にポジティブなイメージを植え付けたかっただけだ。

「現品限りってことでね、四十万円も値引いてくれてねぇ。機械で造るピアノはせいぜい10%も引けないんでしょ? これは、手造り一点物だから、特別にここまで引けるんだって言われたわ。他にも沢山ピアノがあったのに、娘もこのピアノの前から離れなくてね、思い切って決めちゃったのよ……」
 松本は、そんな絹代の話を「ご主人は本物を見抜く目がおありでしたのでしょう」とか「お嬢様は、音が分かる方なんでしょうねぇ」などと、適当に相槌を打ちながら、肯定的に、にこやかに聞いていた。そして、それを許容する絹代の内助の功を、良妻賢母の鏡のようだと遠回しに褒め称えた。
 高齢者の機嫌を直す術は、熟知しているのだ。

 それに、実のところ、この手の話は聞き飽きていたのだ。
 そもそも、「Brueghel」なんていう無名のピアノは、三流以下のメーカーで全く価値なんてない。もちろん、ドイツ製ですらない。見たところ、国産っぽいのだが、それがせめてもの救いだろう。
 当時は、ピアノの市場は、シェアの80%以上が国産の大手二大メーカーで独占されていた。しかし、この二大メーカーのオートメーション化による大量流通に紛れ、残りの二割弱の中に、こういった得体の知れない国産メーカーや、中国製、北朝鮮製、東ヨーロッパ製などの劣悪なピアノも、数パーセントのシェアを占めていた。
 これらのピアノの大半は、「ドイツ仕様ヽヽ」と説明され高級ピアノのように装い、主にデパートやイベント会場などの「催事場」で販売されていたのだ。ある意味、現在のピアノ専科よりも卑劣な詐欺商法が蔓延っていたと言えよう。

 販売店にとって、こういったピアノの一番のメリットは、定価がないことだ。なので、「ドイツ仕様」というドイツ製を連想させる表現で高額な定価を付け、「現品限り」「今だけの特別奉仕」などと謳い、30〜50万円引きという有り得ない値引きにより劣悪ピアノを販売したのだ。
 そう、それだけ値引いても、まだ適正な価格よりずっと高いので、販売店は痛くも痒くもなかったのだ。極端な話、40万円で売っても利益の出るピアノに90万円の定価ヽヽを付け、40万円値引きしている感じだ。あわよくば、ほとんど値引きしないこともあったと言われている。今では考えられない程の、かなり悪どい商売が蔓延していたのだ。
 不思議なことに、こういった詐欺は、比較的ゆとりのある家庭ほど引っ掛かった。当時、高度経済成長を終えた日本では、ピアノ普及率が30%を超えていたとも言われている。
 かつては上流階級だけが持つ高級家財の象徴だったピアノも、むしろ、ピアノを所有してこそ中流階級の証のようなイメージに格下げされていた。だからこそ、上流階級の世帯ほど、国産の大量生産とは一味違う「特殊性」を求めたのだろう。他とは違う、一ランク上のプレミア感を求めたのかもしれない。或いは、ゴージャスな見た目に騙されたのだろうか。
 ピアノ文化がまだ根付いていない当時、ピアノの本質を見極める目も耳も持たない金持ちは、格好のターゲットにされたのだ。

「あぁ、これは良い音だ。本当に素晴らしいピアノですね。コンディションさえ良ければ、言うことないのですが」
 更に次の展開へ持ち込む為、松本はさり気なく布石を打った。案の定、絹代は少し表情を曇らせ、期待通りの反応を示した。
「あのぉ、すみません、このピアノ、状態は良くないのかしら?」
 絹代は、何の疑いもなく自らまな板に上がってきた。期待以上の反応に、思わず笑みが溢れそうになる。はやる気持ちを抑え、松本はジックリと料理するべく、先ずは慎重に下処理から始めることにした。
「ちょっと弾いただけで、こんなもんじゃないだろうなってのは分かりますよ。本来ならもっと鳴る筈です。宜しければ、ちょっと中を見ましょうか? そのぉ、申し遅れましたが、実は私、調律師でもあるんですよ」
 そう言いながら、絹代の返事も待たずに、松本は外装を手際良くバラした。
「あぁ、やっぱり。このピアノ、二十年以上放置されてますね? 埃も黴も錆もすごいことになってます。すみません、折角なので軽く中を掃除させてもらいますので、掃除機と雑巾をお借り出来ますか?」
「え? そんなことまでして頂いて、よろしいの?」
「何を仰いますか。私が中身を見たいだけですから、それぐらいやらせてくださいよ。こんな名器、滅多に会えないのですから!」
 このセリフも、松本の常套句だ。中を掃除して貰えると聞いて、嫌がる人はまずいない。その為に、掃除機と雑巾を貸してくれと頼まれれば、断る人もほぼいない。
 しかし、松本の目的は掃除ではなく、絹代の目を離すことだ。

 絹代が席を外した隙に、松本は隠し持っていたドライバーで、幾つかのバットフレンジスクリューを緩めた。すると、ハンマーが見た目で分かるぐらいグラグラになるのだ。
 こうして、こっそりと人為的な不具合を作り、虚偽の説明で修理に持ち込む……いつもの手法、つまり「C難度」の仕事を取るつもりなのだ。
「漆原さん、ちょっとこれご覧頂けますか? ほら、この部品。ピアノはね、この部品が弦を叩いて音を出すんですよ。でも、これ、グラグラになってるでしょ? 壊れてますね。ほら、こっちも。あと、こことここも。あぁ、この音もダメですねぇ。これだと、マトモに演奏出来ませんよ」
「あらヤダ、どうしてこんなことになったんでしょう?」
「ピアノも生き物ですからね、定期的にお世話をしてあげないと、色んなところにガタが出ますよ。そうじゃなくても、年数が経てば色んな部品の劣化や消耗も起きますからね。この部品だけじゃなくて、例えば、この部品とか……ほら、これはね、全部虫喰いの跡です。服に付く虫って見たことないですかね? あの虫がね、ピアノの中に入るとフェルトの部品を食べちゃうんです」
 実際は、使用による経年変化の消耗に過ぎないパーツを見せ、インパクトの強い「虫喰い」の所為にした。

「あぁ、これもダメだ。勿体無い。このピンが緩くなると、調律しても音がすぐ狂っちゃうんですよ。これは変えないとダメだろうな……」
 見るからに、絹代は不安な表情になっている。その様子を見て、松本はそろそろ仕上げに取り掛かることにした。

「でもまぁ、多少の問題はあるにしても、こんな名器が受け継がれるご家庭って羨ましいですよ。もっとも、直ぐに修理は必要ですけどね。えぇと……漆原さん、余計なお世話かもしれませんが、お嬢様はこのピアノ、修理が必要ってことは分かってます?」
「あ、いえ、そのぉ、そのまま使えるもんだと思ってたので……」
「あぁ、そうですかぁ……よくあるケースですが、例えば何年も放置してた車で出掛けようって人、いないですよね? 無事にエンジンが掛かったとしても、何処か壊れてるかもしれないし、走れたとしても、いつどこで何が起きるか分かりませんからね。ピアノも同じなんですけど、何故かピアノは壊れないって思い込んでる人が多いんですよ」
「……」
「確かに、ピアノは車のような法的に義務付けられた整備はありませんよ。普段のメンテも壊れた時の修理も、するもしないも自由です。ただね、お孫さんが弾くんですよね? 折角こんな凄いピアノなのに、ろくに音も出ない状態だと、練習にもならないし意味ないですよ」

 予想外の話に戸惑い、黙り込む絹代を尻目に、松本は更に畳み掛けた。
「無礼を承知で、ハッキリ言わせてもらいますね。このピアノを貰ったお嬢様、喜びますかね? この状態なら、下手すりゃ迷惑かもしれませんよ。旦那さんも、修理が必要なら買った方が良かったのに……って考えるかもしれませんし」
「そんな、迷惑だなんて……」
「もちろん、漆原さんに全く悪気がないことは、皆んな分かっています。悪気どころか、ご家族の為を思った善意ってことは、キチンと伝わっています。だからこそ問題なのですよ。折角の善意でもね、例えば、エンジンも掛からないような壊れた高級車を貰って、嬉しいですか?」
「……確かに、壊れてたら困りますね」
「困ると言うか、私は迷惑ですね。修理代がバカになりませんから。だったら、最初から状態の良い中古を買った方が良かったなと。でも、あげた方はそんなこと知らなくて、しかも全く悪気がない、いや、もっと言えば、本当に相手のことを考えて、善意だけで良かれと思ってやってるってことも分かってたら、本人にはとても文句なんて言えないですよね?」
「まぁ、そうですね……」
「実際にね、寄贈のトラブルは凄く多いんです。今日は、たまたま私が下見に来たから良かったものの、普通の運送屋は調律師ではないですからね、ピアノの状態なんて分かりません。このピアノの価値に気付くこともないし、搬出経路を見るだけで終わったでしょうね。で、移動してから、どうしようって問題になるんです。壊れたまま受け取っちゃうと、もうどうしようもないじゃないですか。そういうトラブル、年に何回も見ていますよ」
「このピアノは捨てて、買い直してあげた方が良いのかしら?」
 このセリフを待っていた松本は、ようやく針に食い付いた大物を確実に釣り上げるべく、一気にリールを巻くことにした。

「何を仰ってるんですか! こんな名器を捨てるなんて、ピアノに対する冒涜ですよ!」


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