見出し画像

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(4)

前話目次

(4)釣堀

 前日にGoogle Mapで下見した漆原宅を実際に訪れてみると、航空写真からの想像以上に、立派な大邸宅だった。門戸にある古びた厚い木製の表札には、「漆原良一」とだけ刻印されていた。事務員に貰ったデータを見ると、依頼者は六十代以上の欄にレ点が打たれている女性、漆原絹代様……おそらく、良一の妻と考えて間違いないだろう。
 アポの時間から二分過ぎるのを待ち、松本はインターフォンを鳴らした。一般家庭を訪問する際は、ほんの数分だけ遅刻することにしているのだ。逆に、会社や組織の訪問は、数分早く着くように調整する。これは、榊の指示でもあるのだが、今の所問題になったことがないので、松本の中では定着したマニュアルになっている。
 インターフォンからの返事を待つ間に、松本は手入れの行き届いた庭をチェックした。全ての庭木は綺麗に剪定され、雑草も生えていない。プロの庭師の手で維持、管理されている可能性が高いだろう。
 また、車庫スペースの奥には電動自転車がチェーンで繋がれており、その奥には大型のコンテナが設置されている。鉢植えの植物も幾つか置いてあることから、明らかに車庫としては使われていないと断定していいだろう。ご主人の良一は、車に乗らない方なのか、或いは既に亡くなっているのかもしれない。

「はーい、お待ちしてました。どうぞお入りください」
 漆原絹代は、こちらが名乗る前に明るい声で応えてくれた。直感的に、これは久し振りのヒットかもしれない……と思った。
 松本は、下見に訪れる家のことを、いつも「釣堀みたいだな……」と思っていた。全く釣れそうな気配のない釣堀もあるが、今日の釣堀は、大物がお腹を空かせて餌を待っているように感じた。そこに、理由や根拠はない。ただ、長年に渡って培った勘だけが頼りだ。
 そんな期待を胸の奥に押し込め、慎重にいつもの演技モードへ切り替えた。釣りは、何よりも準備と仕掛け、駆け引き、そして、タイミングが大切なのだ。

「どうも始めまして、ピアノ専科の松本と申します。いやぁ、今日はどんなピアノに会えるのかなぁって、朝からずっとワクワクしていたんですよ」
 松本は、先ずは高齢者にいつも使う常套句を投げ掛けた。もちろん、気さくでピアノが好きなことをアピールすることが目的で、全くもって本心ではない。
 玄関で迎え入れてくれた絹代は、七十代半ばの上品な女性だった。名前の通りの絹のような綺麗な銀髪を清潔に束ね、ラフな部屋着姿なのに身嗜みも整っている印象を与える。
 年齢の割には姿勢も良く、歩き方もどことなくエレガントだ。こういった上品な着こなしや立居振る舞いは、長い人生で自然と身に付いたものだろう。良くも悪くも所謂「育ち」というものは、演技ではなかなか表現出来ないし、隠そうとしても隠し切れないのかもしれない。

「今回は、ご依頼頂きありがとうございます。因みに、当社のことは何を見てお知りになられました?」
 今度は、会社のマニュアルに従った質問を投げかけた。
 ピアノ専科は、ホームページも開設しており、稀にサイトを見て配送を申し込む客もいるのだが、その場合は、決して詐欺的な査定をしてはいけないという社内ルールがあった。ネットを見る人は、必ず他社と比べ、相場を調べるからだ。

「そうだね、一昨日の新聞におたくの広告が載ってたでしょ? ホラホラ、これ、切り抜いといたのよ」
「あぁ、ありがとうございます。こうやって、必要な方のお目に留めて頂けたなら、ホント広告出した甲斐がありますよ」
「なんかねぇ、急に娘がピアノが欲しいって言い出してね、子どもに習わせたいんだとか……それなら、折角ここにあるんだから持っていけばって話をしてたところなのよ。でも、運ぶだけで何万も掛かるって言うじゃないの。どうしようねぇ、なんて話していた時にこの広告を見てね、おたくは八千円って書いてるじゃない。こりゃあ安いわと思ってね」

 紙媒体からの運送依頼、高齢者、金持ち、娘に譲渡、孫が使用……ロイヤルストレートフラッシュ。理想的なカードが見事に揃った。

「ありがとうございます。そうですよね、他所の運送屋って何であんなに高いのでしょうね。もう、うちは出来るだけ安くやらせて頂きたいと思っていまして、ギリギリの金額にしているんですよ」
 そんな会話の最中も、見える範囲で家財道具などを見定め、財政状況のチェックは抜かりがない。その結果、間違いなく金はある、と判断した。
 そして、左手の和室には、線香の上げられた仏壇らしきものがみえる。おそらくだが、ご主人は既に亡くなっているのだろう。直感を信じると、この大きな屋敷で、絹代は一人暮らしをしていることになる。他に家族が住んでいる気配は、全く感じ取れない。

「でね、このピアノなんだけど、娘の嫁ぎ先に持ってって欲しくてね」
「では、ちょっと確認させて下さいね」
 そう言いながら、松本はピアノの搬出経路を確認した。一応、運送サービスとして訪問している。これだけはヽヽヽヽヽ、真面目に見ておく必要があった。
「娘はね、隣の東川区に住んでいるんだけど、八千円で持ってってくれるんでしょ?」
 絹代は、確認を入れてきた。このセリフを機に、松本は少しずつ攻撃モードに切り替えるのだ。
「そうですよ、県内の一階から一階の移動は、税込みで ¥8,800 になりますね。お嬢様のお家でも、一階の設置でよろしいですか?」
「えぇ、確か一階のリビングにって言ってましたわ」
「お嬢様のご自宅には、道路から玄関までに段差はありますか?」
「そうだねぇ、玄関の段差ぐらいじゃないかしら。それか、リビングの掃き出し窓から直接入ると思いますけどね」
「分かりました。それでしたら、移動料は仰せの通り ¥8,800 です。他に、搬出料が ¥5,500、搬入料も ¥5,500、設置料はサービスさせて頂きます。なので、総額は税込みで ¥19,800 ですね」
 そう伝えると、絹代の態度は豹変した。その表情からして、意外と育ちは悪いのかもしれないと思い直した。前言撤回、改過自新だ。育ちは、ある程度は誤魔化せるのかもしれない。

「えっ? ちょっとあなた、何を仰ってるの? ここに、県内移動は八千円って書いてるじゃないの! これは嘘なの? 年寄りだと思って騙そうとしてるんなら、許さないわよ!」
 A難度は、状況に応じ、額面通りの ¥8,000 で請けても良いことになっている。もちろん、あれやこれやと理由を付けて、金額を吊りあげても良い。その辺の駆け引きは、営業に一任されているのだ。
 松本は、修理も取れそうな時は、必ずここで金額を吊り上げることにしている。そうすると、大抵の場合相手は怒り出す。実は、松本の経験上、怒る人の方が騙しやすいというデータがあった。逆に、怒らない人は腹の中が読み切れず、受け答えもファジーなまま終始し、結局A難度すら取れないケースが多いのだ。
 絹代は、予想通り怒った。つまり、ここまでは松本の期待通りに展開していることになる。

「ねぇ、漆原さん、よく広告見て下さいね。県内移動は八千円ですけど、これは基本料ってちゃんと明記しているでしょ? さっきも言った通り、もちろん八千円で運ばせて頂きますよ。でも、御自分で外に出せます? それに、届いたピアノを玄関で受け取って、御自分で設置出来ます? 搬出、搬入、設置をタダでやれって言われても、こちらとしても困るんですよねぇ……」
「そんな……そういうのって、普通は全部込みじゃないんですか!」
「普通ですって? うーん、普通って言われても、何を基準に仰ってるのでしょう? 失礼ですが、そんなに頻繁にピアノを移動されてるのでしょうか? 憶測を普通と言われても……」
「でも、八千円って書いてるじゃないですか。それで全部済むもんだと思ってしまいますわ」
「えぇ、書いてある通り、基本料は八千円ですよ」
 絹代は、全く納得する様子はない。しかし、それもまた松本の想定範囲内だ。

「あのね、漆原さん、例えば手紙を出す時って、郵便局やポストまで出しに行きますよね? 切手を貼れば、取りに来てくれますか? 宅急便に集荷を依頼した時、部屋の中まで取りに来てくれますか?」
「いえ、それはまた別の……」
 モゴモゴと何か言いかける絹代を無視し、被せるように松本は発言を続ける。
「逆に、届いた郵便や宅急便の荷物も、玄関やポストで受け取りますよね? 家の中まで持って来て中身を取り出して、片付けまでしてくれますかね? 運送費とか送料ってのは、あくまで運ぶ運賃のことです。ピアノの運送も同じですね、普通ヽヽは。うちはね、県内の移動は八千円で行っています。嘘だなんて悲しいこと言わないでくださいよ。騙そうだなんて……いやだなぁ。広告に書いてある通り、家の外に出してくれれば、お嬢様の家の前まで八千円で運びますよ。それはもう、責任を持って精一杯の仕事を丁寧にさせて頂きます。お客様の大切なピアノですからね、細心の注意を払って広告通りの金額で運ばせて頂きますよ」
 それでも、絹代は不服そうな顔だ。何か不満や不平、文句を言いたげだが、上手く言葉が纏まらないのだろう。目を吊り上げて、黙り込んでいる。

「では……そうですね、勘違いされたってことは、こちらの表現にも落ち度があったのかもしれませんので……そうだな、折角下見に来させて頂いたんですから、私の独断でね、搬出料は全額サービスさせて頂きますよ。なので、¥5,500 引かせて頂いて、¥14,300……半端も切り捨てましょうか。総額 ¥14,000 で如何でしょう? 搬出、搬入、設置料、税金、全て込みですよ。まぁ、¥8,800 からしたら高いかもしれませんが、他に頼むと二万円以上しますからね、こちらとしてもこれが精一杯です。もし、これでも高いと思うんでしたら、残念ですけどご縁がなかったってことで、他を当たっていただくしかないですね。もちろん、今日のお見積もりはチラシに書いてある通り無料ですので、これでおしまいってことになります」
 そう一気に畳み掛けると、絹代は渋々ながらも、アッサリと折れた。そんなものなのか、と納得したのかは定かではないが、思考能力を鈍らせることは出来たかもしれない。
 そう、松本は意図的に怒らせることにより、絹代から冷静な判断力を奪いたかったのだ。結局のところ、あの場面で怒りを抑える人は、理性的で判断力を失わない人なのだ。絹代は、一時的に感情が先走った結果、冷静な判断力が鈍っている。つまり、想定通りに進んでいる。
 さて、準備は整った。松本にとってはここからが「釣り」の本番だ。

(次へ)